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命のメッセージ展 in岐阜 [その他]

今月2日から14日まで、JR岐阜駅構内にあるハートフルスクエアG2階にて、
命のメッセージ展が行われています。
地元紙朝刊で知り、先日近くまで出かけた折に、寄らせていただきました。

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今から4年ほど前
映画「0からの風」を見に行ったときにも、会場で規模を縮小して展示されていたので
見せていただいたことがあるのですが、
今回はその時に続いて2度目。
交通事故や犯罪などで理不尽に命を奪われた子どもさんたちの等身大の人型
それに書かれたご家族からのメッセージ
そして、生前お子さんが使われていた靴・・
中には、ネットで知り合った方の名前もあり、改めてメッセージをじっくりと読ませていただきました。

このメッセージ展については、もう何年か前のことになりますが、
このブログでも触れたことがあります。
造形作家である鈴木共子さんが、一人息子の零君を交通事故で亡くされ
その後、この経験や命に対する思いをアートという形で人々に伝えていきたい、との考えから
このメッセージ展を始められたとのこと。
詳しくは以前に書いたこちらの記事に→http://m-haruka.blog.so-net.ne.jp/2008-05-28

その後、同じような経験をされ、鈴木さんの活動に共鳴された多くの方が協力され
国内のあちこちでこのメッセージ展が行われているようです。
私が訪れたこの日も、他県からおみえになっていた方がお手伝いをされていました。
メッセージ展にはお子さんを亡くされた方も、よくいらっしゃってくださいますよという
お話でした。やはり同じような経験をした者同士通じ合えるものがあるのでしょうね。
このメッセージ展は、思いを共感し共有できるというそういう点でも、意味のあるものなのでしょう。
しかし、子どもさんを亡くした方ばかりでなく、そうでなくて普段命の意味などさほど深刻に
考えたりすることのない方々にもみていただいて、命について考えてもらう機会にしてもらう
ということにおいても、きっと大きな意味があるのでしょうね。



メッセージ展について、上記リンク先にある「命のメッセージ展」HP内にも
その理念が書かれています。

『人が暴力的にいのちを奪われることなく精一杯生きることが出来る社会を夢見ています。
戦争はない、殺戮はない、犯罪はない、被害者の生まれない世界。
しかし現実には多くの生命が犯罪や社会の不条理のもとに生命を断ち切られています。
ひとつとして忘れることの出来る生命はありません。
彼らの生きた証を私たちがたどれば亡くなった生命がそのことを教えてくれるはずです。

メインの展示は犠牲者一人ひとりの等身大の人型と彼らの遺品の「靴」。靴は彼らの生きた証の
象徴です。
人型には一人ひとりの素顔や遺された家族の綴ったメッセージが添えられています。
多くの人々が現実を知り生命の重さを考えてもらうために、日本全国、そして世界各地へと
巡回展をしています。

私たちは人型となった犠牲者たちのことを、生命の大切さを伝える「メッセンジャー」と呼んでいます。
一人でも多くの人が「メッセンジャー」に出会って頂きそのメッセージをうけとめて頂きたいと
願っています。』


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『金子みすゞの虚無』 [金子みすゞ]

金子みすゞといえば、『わたしと小鳥とすずと』の詩であまりにも有名な童謡詩人です。
この詩は、個性尊重をうたった詩として、小学校の国語の教科書にも好んで載せられています。
教科書以外のところでも目にすることも多く、おそらくは彼女の最も有名な詩ともいえるのでしょう。
しかし、それも3.11までは・・

震災以降、連日のようにテレビで流されたACのコマーシャル、
『あそぼっていうと、あそぼっていう・・・・こだまでしょうか、いいえ誰でも。』
印象的なナレーションで語られたあの詩、
テレビの影響というものはものすごいもので、あれ以来、金子みすゞの詩のなかで、
この詩が最も有名になってしまったかのようです。
「優しくて好き」「語りが単調で暗いから好きになれない」と、好みは分かれるようですが。。
しかし、世間一般では、あれ以来金子みすゞの詩は、「思いやりとやさしさにあふれ」「こういうときだからこそ絆の大切さに気付かせてくれる・・」など、『やさしさ』『絆』というイメージで多く語られているようです。

以前のわたしが金子みすゞの作品の中で知っていたのは、
『わたしと小鳥とすずと』と『はなのたましい』くらい。
前者よりも、後者の作品の方がとても印象に残っていて、
なんていのちを深く見つめ、やさしいというよりは、儚くさびしげな詩を書かれる人なのだろうとどこかでなんとなく感じていたのでした。

この詩の印象があって、それから彼女の送った生涯のことがあって、
そういうことのせいなのか、ACで、『優しさ。思いやり』の押しつけのようにして連日流されたコマーシャルに違和感を覚え、『今こそこの優しさあふれる詩集を・・』的なメッセージとともに書店に並べられていることにもなんとなく違和感を覚えていた、そんなとき、
地元中日新聞夕刊に、文芸評論家の尾形明子さんのエッセイを見つけたのでした。
『金子みすゞの虚無』とのタイトルを一目みて興味をひかれ、読んでみたところ、
今までぼんやりと感じていた違和感が一気に拭いされるようで、尾形さんのおっしゃっていることに
強く共感をおぼえたのでした。

エッセイ(7月4日中日新聞夕刊)から一部抜粋
*******************************
・・・・(略)・・・・・・被災していなくても、たいがいの人は、3.11以降、時間が止まったような思いを抱いている・・・(略)・・・・・・原子力のことなど、これまで考えたこともなかった、私をふくめた都会に住む人間は、自らの無知を恥じつつも、色も臭いも、音もなく大気の中に降り注ぐ放射能に、突然に気がつき動転している。そうした恐怖と心の底に広がっていく虚無感に、金子みすゞの詩はなんて似ているのだろう。

<お花が散って 実が熟れて その実が落ちて 葉が落ちて、 それから芽が出て 花が咲く。
 そうして何べん まはつたら、 この木は御用が すむかしら。 「木」>

 季節のめぐりの中で繰り返される、自然の営みに命の喜びを見るのではなく、「御用がすむ」時を待つ少女はすでに疲れ果てている。・・・・・・(略)・・・・・・
父親は、日露戦争後も続いた抗日運動の最中に死んだ。旗や花に囲まれた「おとむらいの日」の記憶が、あの「大漁」の詩に結実する。

<濱は祭りの やうだけど 海のなかでは 何萬の 鰯の とむらひ するだろう。 >

 暗転の魅力に満ちたこの詩に、私は反戦をみる。・・・・・(略)・・・・・・・
 義父の命令で余儀ない結婚をして女の子を生み、三冊の詩集を書き残して、1930年3月に自死する。遺言のような最後の詩に、

<誰も知らない野の果てで 青い小鳥が死にました。「雪」>

とあり・・・・・(略)・・・・・

26歳で命を絶った稀有な詩人を、「絆」や「やさしさ」の象徴として、国民的詩人にしてしまったなら、その底知れないニヒリズムも空洞も、絶望も、どこかに消えてしまうことだろう。

**********************************

尾形さんがエッセイの中で紹介されていた詩は、ごく一部だったのですが、
それでもとても引きつけられ、その後ネットを検索し他の作品も読んでみました。
そして先日は、金子みすゞ詩集も買ってきてしまいました。
彼女の作品には、一見やさしさおもいやりの感じられるものも多い。
しかしその多くは、自然をうたったものであり、
ときには「雪」になり「花」になり、そしてまたときには「星」や「土」にもなる、
そうして、花や雪や星の気持ちになって、その気持ちのままを詩の中に織り込んでいるように思われ、
人が人をおもやるという類の「おもいやり」というよりは、花も虫も土も星もすべてをひっくるめた、いのちをまるごと見つめているような、大きく深いものを感じます。
それとともに、これが一番感じたことでもあるのですが、
人も動物も植物も、地面も空も風も星もこの世界にあるものすべてが繋がっていて、
そしていのちが繰り返されているということ、
これは輪廻転生にも繋がっていくことなのでしょうけれど・・・
この繋がるいのちに対して温かな目線が注がれているわけですが、
あたたかさとともに、どうしようもないさびしさ、孤独というものが感じられてきて仕方がなのです。
これは尾形さんも書いていらっしゃるように、底知れないニヒリズムや空洞、絶望というものが金子みすゞの中に(というより金子みすゞが感じているこの世界の中に)根源的に存在するからなのかもしれない。
今金子みすゞの詩が我々の心を捉えるのは、尾形さんいわく
「底知れない怖さと虚無を含み、それが透明なベールで包まれているから」なのであり、
「コマーシャルのリズムにのってすっかり有名になったあのやさしい共生のイメージ」によるものではないのだろう。

コマーシャリズムに乗せられて、文学作品の真の意味を知ることなく、真のよさを味わうことなく
終わってしまうのなら、とても悲しいこと。
イメージの刷り込み、あやまった情報、そういうものに振り回されることが、今や文学の世界にまでも及んできたのだとしたら、悲しさを通り越して、なんだか虚しい気持ちになってしまう。

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ブログが書けない! [思うこと]

今日から7月。
これで今年の半分が終わったことになります。
早いなぁというのがまず最初に思うこと。
そして、この半年の間に、世界はほんとうに変わってしまったのだということ
改めて切実に感じさせられます。
今年のお正月には、このような事態になっているなんて
つゆほどにも思っていなかったのだから。

3月からしばらくの間に、いくつか呟き記事を書いたのですが、
6月に入って、なぜだかちっとも書けなくなってしまいました。
思うことはいろいろあったのに・・・どうして?

1か月以上、記事書いてないのに、なぜか多くの方がいらしてくださっているようで驚きます。
更新してないのに、毎日100件から200件のアクセスがあります。
トータルアクセス数も、昨年2月に10万件を超えたのですが、あれから1年ちょっとで、18万件ほどになろうとしてます。
「我が子を亡くす」というような言葉で検索して来てくださる方も多いようなのですが、
同じようにお子さんを亡くされた方が、訪問してくださっているのでしょうか。
タイトルの「ひとりごと・・」にあるように、誰かと繋がろうとかいうよりは、
どこへもぶつけることのできない自分の思いを吐き出す場として始めたHPであり、
その延長のブログであったのですが、今はもうひとりごと、では済まなくなっているのかもしれません。
同じようにお子さんを亡くされた方が、このブログを読んでどのように感じられたのか、
気になってもいるのですが・・コメントやメッセージを頂けた方からはお聞きできるのですが
大半の方はそうでないので、よくわかなくて、ちょっと気がかりでもあります。
なにか気に障るような内容を書いていましたら、お許しください。

亡き娘晴香を偲ぶ目的で始めたこのブログなのですが、
いつの間にかそれとは直接関係のないニュースなどについても書くようになっています。
改めてこれまでに書いてきたことを振り返り、そして今の自分の現実の姿をみたときに、
これまで書いてきたことや自分が求めてきたこととの矛盾を発見・・
なんてダメな自分なんだ。。と、愕然となることもあり、
何も書く気がおきなくなってしまうことも。今回しばらく記事があいたのも
ただ忙しいというだけでなくて、どうやらそういう原因もあるようなのです。

そういえば、ネットを始めて間もない頃
ある方からもらった次のようなコメント(このブログ内ではないですが・・)に対して、
考え込んでしまったことがあります。
「・・未来を明るく照らす何かが見えた気がしました。
悲しみだけのページではない、あたたかい強さを感じ・・」
このコメントに最初は喜んだんです。
でもそのうちに、未来を明るく照らす・・という言葉が気になりだして。
自分は娘を亡くしてめちゃくちゃ悲しくて辛くて、そんな思いを抱きながらHPを作ったのだけど
人から見たら明るい未来を感じるのは、どうしてなのかと。
自分は、HPを書いたりなにかのコメントを書いたりするときにも、
自分を鼓舞するような文章を書いていたのかもしれない。
なにもしなかったら、どんどんと沈み込んでしまう自分を、書くことによって
なんとか引きあげようとしていたのかもしれません。
このときにも、弱い部分を隠し鼓舞しようとする自分が、
(言葉は悪いかもしれないけど)なにか自分で自分を騙しているような気分になって、
ちょっとした自己嫌悪に陥ったのでした。

それからもうひとつ、原因があるとしたら、
それはなにか得体のしれない虚無感のようなものに襲われてしまったこと。
たぶん震災が影響しているのだろうけど・・
これは特に別ブログ(greengreen)で顕著に・・もう2ヶ月半も更新してない。
日々の生活は、以前とさほどかわりなくフツーにすごしているのだけど、
いったん文字にしようとすると躊躇われてしまい、写真は撮ってはみるものの
ブログに載せる気になれない。何故だか虚しく思われてしまって・・・

自己嫌悪と虚無感の中に、このままとどまりつづけたら、
もう戻ってこられなくなってしまいそう。
新しい月を迎えたことを契機に、またぼちぼち書いていくことにしましょう。
どんなことがおきようとも、生きている限り生きていかなきゃならないんですから。
それならば楽しくいきましょ!という自分のモットーを思いだして。

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「パエトーン」 [本(その他)]

山岸涼子さんの「パエトーン」、原発事故の後からネット上で随分と話題になっていたようですね。
山岸さんの作品では、学生の頃に読んだ「アラベスク」、
そして最近になって読んだ「日出処の天子」などくらいしかよく知らなかったのですが、
このような作品を、20年以上も前に書かれていたのですね、驚きました。
なんとかして、作品を手に入れて読んでみようと思っていたのですが、
すでに「パエトーン」が収録されたものは多く絶版になっているようです。
しかし、昨日電子書籍にてやっと読むことができました。
3月の末あたりからネット上で無料公開されていたのですね。
以下、その件に関するニュースより

asahi.comニュース
「原発是非問う漫画「パエトーン」、電子書籍で無料公開」記事より
*********************************
 漫画家の山岸凉子さんが、チェルノブイリ原子力発電所の事故後に原発の是非を問うた作品「パエトーン」を、電子書籍の形で無料公開している。福島の原発事故直後、ネット上で話題になったのがきっかけ。先月25日の公開以来、15万回以上読まれている。

 チェルノブイリ事故から2年後の1988年に発表した。ギリシャ神話に出てくる高慢な少年パエトーンは、太陽神の日輪の馬車を暴走させ、あわや地球を焼き尽くしそうになる。
 作品はこのパエトーンを、原子力を制御できると信じる人間に重ねて描く。さらに原発の仕組みや日本の原発分布、日本で事故が起きた場合の影響などを、図入りで説明している。

 公開した潮出版社によると、福島の事故直後、ネット上で「まさにパエトーンの状態だ」と話題になり、山岸さんに知らせると、「ぜひ無料公開したい」と返事があったという。
 チェルノブイリ事故後、山岸さんは原発について本で学び、「今、日本で起きてもおかしくない」と危機感を覚えたという。
 「原発は、ひとたび事故が起きれば人間の力で制御できないほどのエネルギーを持つ。メリットに対するリスクが大きすぎ、25年前と危険は少しも変わっていない。原発について、一人でも多くの人に考えてもらいたい」と話す。
**********************************

作品の前半部分は、ギリシャ神話にでてくる「パエトーン」についての物語

太陽神アポロの日輪の馬車を、人間の身でありながら操ろうとし、
あげく広大な土地と人々を焼き払うことになってしまった、愚かなパエトーン
神をも超えられるとおもったのか、と人間であるパエトーンの
思慮浅さと傲慢さに対する批判は当然のこととして。。
私は、太陽神アポロが、人間には操ることができないことを知っていながら、
なぜパエトーンに「日輪」を貸し与えてしまったのか、不思議に思えてしまうのです。
もしも操ることができなくなったら、その時にはどうなるのか・・
アポロは知っていたのであろうに。
パエトーンの懇願に負けてしまったということなのでしょうか。

神でさえも御することの難しいものを操ることができると思い込んだ人間の傲慢さ
その危険性を知りながら誘惑に勝てずに許してしまう人間の弱さ、
漫画から人間世界のそんな構図を思い浮かべてしまいました。

作品の後半部分は、チェルノブイリの事故後に、著者が調べたことをもとに
原発のしくみ、もしも原発で事故がおきたらどうなるのか、
プルトニウムやウランなどについてもわかりやすく説明されていました。
放射性元素は超新星爆発のときに生まれたものだとか、なかなか興味深く、
また核分裂でうまれるプルトニウムは地獄の神プルトーンの事とか考えてみると
改めて恐ろしくなります。

それにしても、20年以上も前にこのような作品を書かれているとは、
先見の明があるというか。。
山岸涼子さんが心配されていたようなことが、今回実際におきてしまって、
ご本人もさぞ驚き悲しんでいらっしゃることでしょう。
そして、「パエトーン」を通して多くの方に原発問題について考えてほしいとの願いから
今回電子書籍と言う形で無料公開されることになったのでしょう。
これが、事故の後でなくて、事故がおきる前により多くの人に読まれていれば・・
いや、たとえ読まれていたとしても、真剣になって考えた人はどれだけいたのか。
やはり悲しいことに人は、大変な事態が実際におきてみないと危機を感じることができない、ということなのでしょうか。

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ホーキング博士 天国を否定 [科学・宗教]


【5月17日 AFP】英国の宇宙物理学者スティーブン・ホーキング(Stephen Hawking)博士は、16日の英紙ガーディアン(Guardian)のインタビューで、天国について「暗闇が怖い人間のための架空の世界」と述べ、宗教の根幹を成す概念を改めて否定した。

 ホーキング博士は、世界各地でベストセラーとなった『ホーキング、宇宙を語る(A Brief History of Time)』(1988)では「神というアイデアは宇宙に対する科学理解と必ずしも相いれないものではない」と記していたが、その後四半世紀で宗教に対する態度は著しく厳しいものになった。

 2010年の『ホーキング、宇宙と人間を語る(The Grand Design)』では、「宇宙創造の理論において、もはや神の居場所はない」と述べている。物理学における一連の進展により、そう確信するに至ったという。

 博士は今回のインタビューで、自分の考えは21歳の時に発症した運動ニューロン疾患との闘いにも影響されていると語った。
「わたしはこの49年間、死と隣り合わせに生きてきた。死を恐れてはいないが、死に急いでもいない。やりたいことがまだたくさんあるからね」
「脳はコンピューターのようなもの。部品が壊れれば動作しなくなる。壊れたコンピューターには天国も来世もない。天国は、暗闇を恐れる人間のための架空の世界だよ」(c)AFP
**************************************


以前は神について否定的でなかったホーキング博士が、
今回神の存在をきっぱりと否定する発言をされたことは、唐突のようにも思われます。
なぜそのように考えるに至ったのか、という疑問は当然出てくると思います。
最新の著書である『ホーキング、宇宙と人間を語る』では、
宇宙、空間、時間について触れられていて、その中でそのことに関しても述べられています。

実はこの本、日本でも昨年末に発売されていて、
その直後から気になっていたのです。
読んでみたい、でも難しいだろうなあと迷いつつ・・
そして2月に入ってからとうとう思い切って購入、その後
読んで戻りつ、再び読んで・・と実に長い時間をかけてほぼ一通り目を通しました。
それで、どれだけ理解できたのかについては、実に怪しい、
というか専門的な用語や理論についてはわけがわからない・・・
でも、金魚鉢や、サッカーボールとゴールに例えた実験や説明などわかりやすく、
一般的な物理科学に関した書物に比べると、哲学的な要素もあり、
興味をもって読めるところが結構ありました。でも、やっぱり難しい~(´_`。)

ホーキング博士については、以前このブログでも少し触れたことがありました。
たしか埴谷豊さんとの対談集である池田さんの著書「オン!」の中にも出てきていたはず。
こちら
http://m-haruka.blog.so-net.ne.jp/2010-02-20

このときから、一風変わった科学者だとちょっと興味を覚えていました。
科学者でありながら、哲学的でもあり。。
今回の著書の中でも、科学と哲学に関わる発言をされていました。
哲学界に対して、かなり辛辣な言葉ですが・・

第1章 この宇宙はなぜあるのか?-存在の神秘 より
p10 
『・・現代において哲学は死んでしまっているのではないでしょうか。哲学は現代の科学の進歩、特に物理学の進歩についていくことができなくなっています。・・・』

では、神が存在するか否かについて、なにを根拠に述べられているのか。
ホーキング博士は、時間に始まりがあるのかそうでないのか、これに関わって説明をされています。
時間の始まりが宇宙創成の謎にせまるキーを握っているというわけなのでしょうか。

これに関わって一部引用。
(これに先立ち、世界の端について触れられています。時間の始まりについての議論は、世界の端についての議論に少し似ている。その昔地球が丸いと知らなかった時代には、世界の端がどうなっているのか不思議であったが、世界が平坦な平面でなく球面であると人びとが気付いたことによって解決された、ということが述べられています)

第6章 この宇宙はどのように選ばれたのか?-相対論と量子論の描く宇宙像より
p190~p191
『・・・しかし、時間は線路の模型のようなものです。もしそれに始まりがあったならば、汽車を走らせるような何者かーすなわち、神ーが存在していなければなりません。アインシュタインの相対性理論は空間と時間を時空として統合し、そして空間と時間が混合するという概念を盛り込みましたが、それでも時間は空間と別なものとして扱われ、始まりと終わりがあるか、永遠に続くかのいずれかでした。しかし、量子論の効果を一般相対性理論に加えると、ある極端な場合において大規模なゆがみが生じ、時間がもう1つの空間次元としてふるまうようになるのです。
宇宙が一般相対性理論と量子論の両方に支配されるほど小さいような初期の時代では、実際上の空間次元は4つあり、時間次元は存在しませんでした。・・・・』

非常に初期の宇宙にまで遡ると、時間はもはや存在しないということ、
それがなぜなのか、
下から4行目からの、「量子論の効果を一般相対性理論に加えると、ある極端な場合において大規模なゆがみが生じ、時間がもう1つの空間次元としてふるまうようになるのです。」
の部分が、その説明にあたるのでしょうが、量子論や相対性理論自体理解できていない自分には、
なんだかよくわからない。
ただ、初期においては時間は存在していない、4つ目の空間次元であったということ、そのこと自体を頭において次に続く文章をみてみると・・

p192
『時間を空間のもう1つの方向であるとみなすことは、世界の端を取り除いたのと同様に、時間が始まりを持つという問題をまぬがれることができるということを意味します。宇宙の始まりを地球の南極に、緯度を時間に見立ててみます。等緯度の円を宇宙の大きさに見立てれば、それは北に移動するにつれて膨張していきます。宇宙は南極において点から始まるわけですが、その南極は他のいかなる点とも同じようなただの点に過ぎません。南極よりも南には何もないので、宇宙の始まりの前に何が起こったのかという質問は意味をなさなくなります。・・・』

これに続いてホーキング博士は、
人びとは、宇宙に始まりがあると信じることを、神が存在する根拠として用いてきたが、時間が空間のようにふるまうと理解し、宇宙の始まりが科学の法則によって支配されていると考えることで、何らかの神によって動かしてもらう必要がないのだ、と述べています。宇宙は無から自発的に生成されたのであり、宇宙を生成して発展させるのに神に訴える必要はないのだと。。

ホーキング博士のおっしゃっていることは、なんとなくそれなりには伝わってきたように思えるのですが、
それでも、なぜ無からこのような宇宙が生まれてきたのか、という問いはやはりなくならなくて、
なぜ、宇宙は存在するのか、
なぜ、私たちは存在しているのか、
私たちは何者なのか、
このような疑問は相変わらずすっきりと解決されない。

ホーキング博士の、死後の世界は存在しない、
「天国は暗闇を怖がる人のための架空の世界」という主張についても、
そこまできっぱり断言してしまえるものなのか、自分の中で疑問が残ります。

それに、もし天国がなくて死後の意識というものがないなら、暗闇を恐れることもないわけで、
それなら暗闇を怖がる人のための架空の世界も必要ではなくなりますね。
どちらにしても、そのときにならないと真実はわからないのかも
(死後の世界や意識がなければ、それを認識することはできないけど・・)


ホーキング、宇宙と人間を語る

ホーキング、宇宙と人間を語る

  • 作者: スティーヴン ホーキング
  • 出版社/メーカー: エクスナレッジ
  • 発売日: 2010/12/16
  • メディア: 単行本



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辺見庸「神話的破壊とことば~さあ、新たなる内部へ」 [辺見庸]

3・11震災以来、さまざまな人たちがそれぞれの立場から発言をされています。
先日私にしてはめずらしく、『文藝春秋』5月号を購入しました。
柳田邦男、瀬戸内寂聴、曽野綾子、李登輝、石原慎太郎、玄侑宗久・・・など、
各界著名人、多くの識者からの寄稿文が載せられておりぜひとも読んでみたいと思ったから。
そんな中で、もっとも引きつけられた文章は、作家辺見庸によるものでした。

辺見庸氏は、宮城県石巻市出身。
小説家、ジャーナリストであるとともに、最近詩集『生首』で中原中也賞を受賞された詩人でもあります。
一瞬にして変わり果ててしまった故郷を前に語るその言葉ひとつひとつは、心に響くというよりは
むしろ心につきささってくるような激しさとすさまじさがあり、他の誰の文章よりも衝撃的でした。


文藝春秋5月特別号 「緊急寄稿 われらは何をなすべきか 叡知結集41人」
『辺見庸 神話的破壊とことば~さあ、新たなる内部へ』  より

『・・・・友人たちがわたしの生まれ故郷、宮城県石巻市の被災現場からもどってきた。彼らの話と、もちかえった映像は、新聞やテレビのそれとはずいぶんちがった。親や兄弟をうしなったかれらは、おもざしも声音も変わり、まるで石化したかのように寡黙になっていたのだ。ある者がそっとつぶやいた。「いっさいが整合しない。事実がすべてばらばらになって、ひとつのことがどうも他と結びつかない」。またあるものはひとりごちた。「事実がどーんとたちあがったけれども、それにみあうことばがない。ことばは事実にとおくひきはなされている」。浜辺にうちあげられた死者たちの映像より、神経系統をそっくりひっこぬかれたような友人たちの無表情、すっかり抑揚をなくした声にわたしはたじろいだ。いったい、なにを見たのか。かれらはなんにちも親兄弟をさがしてあるいた。口をそろえていうには、故郷は地震と津波の被災地というよりは、まるで大爆撃のあとのようだったという。未編集の映像は、たしかにどうながめても自然災害にはみえない。・・・・・(略)・・・・・・どうすればそのような造形が可能になるのか、波に押しながされた十数台もの車がおりかさなってガソリンに引火、つぎつぎに爆発して、しいていえば現代アートのように、そのまま黒っぽい車の塔になっている現場もあった。それはわたしやわたしの妹がよくかよっていた小学校の校庭だった。塔のなかには焦げた死者がすわっていたという。影たちのように。・・・・・(略)・・・・・・・

予感できなかったこと、それを過誤とはよべないか。落ち度といえないか。このたびの破壊の一面はおそらく数値化のまったく不可能な、およそ限度というもののない、いうならば神話的なまでの破壊なのであり暴力であった。それを予感しえなかったこと、措定しえなかったことをあやまちとよぶなら、いま、わたしたちがこれだけの神話的な破壊を叙述することばをさっぱりもちあわせていないことは、さらに救いがたいあやまちであるにちがいない。・・・・・・・(略)・・・・・

こうなったら、荒れすたれた外部にたいし、新しい内部の可能性をあなぐるいがいに生きのべるすべはあるまい。影絵のひとのようにさまよい、廃墟のがれきのなかから、たわみ、壊れ、焼けただれたことばの残骸をひとつひとつひろいあつめて、ていねいに洗いなおす。そうする徒労の長い道のりから新たな内面をひらくほかにもう立つ瀬はないのだ。新たなる内部では、2011年3月11日のまえよりも、もっともっとひととことばの深みに関心を向けようとわたしはおもう。しおさいと讖(しん)と兆しにもっと謙虚に耳をかたむけよう。・・・・・・・・』


テレビや新聞、さまざまなニュースなどの画像映像を通して、
津波や現地の被害がいかにものすごいものであったのかと、
少しは知った気になっていたけれど、本当の姿をわたしたちは見ていないのだと
改めて思い知らされるようです。
テレビでは決して映されていないものがある、
そこにこそほんとうの哀しみ、受け入れられない現実がある。
辺見氏の文章には、テレビなどで流されている映像よりもずっと真実の姿が
生々しく描かれていて、現地の人々の味わっている深い悲しみの一端が
伝わってくるようであり、今回の震災の恐ろしさすさまじさを垣間見る思いがします。

辺見氏は震災後、多くの詩を綴られており、『文學界』最新号(6月号)にも掲載されているようです。
つい最近では、NHKの番組にも出演され、震災について語られたようです。
辺見庸が語る大震災──瓦礫のなかから言葉をひろって──(NHK「こころの時代」)
この番組は4月に入ってから何度か放送されたようですが、どれも見逃してしまいました。残念。。
いつかまたBSあたりで再再放送してくれるといいのですが・・
どなたか、放送の情報得られましたらぜひ教えてください。


番組についての記事を追っている中で、
詳細に文字おこしされている方のブログ発見。
こちらにもリンクし、じっくり読ませてもらうことにしましょう。

shuueiのメモさんのブログより
「瓦礫の中からことばを 辺見庸」
http://d.hatena.ne.jp/shuuei/20110501/1304198241

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今年の桜そして思うこと [思うこと]

今年は3月になってからもいつまでも寒くて、なかなか桜の蕾が膨らまず、
4月に入ってようやく咲き始めたとおもっていたら急に暖かくなり、
一気に満開になりました。

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昨年の桜は今年とは対照的に、咲き始めてから気温の低い日が続いたためか、
じっくりと時間をかけて満開になり、そして長い間綺麗に咲き続けていました。

今年はというと・・
先週末あたり満開になったかなとおもったばかりなのに、
今週に入ってからつぎつぎ散り始め、もうすでに終りに近づいています。
月曜日、通りかかった地元の小学校でも、
強い風をうけて、花びらが吹雪のように舞っていて、
地面に落ちた花びらが、桜色の絨毯のように敷き詰められていました。

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ほんとうに、あっけないくらいに早く散ってしまいそう。。

今年は桜の花もじっくりと鑑賞することなく、そして、
花見だけでなく、地元のお祭りも自粛のため中止になり、
なんとなく淋しい春になってしまいました。
夏に行われる恒例の長良川花火大会も中止になるのだとか。
世の中自粛ムードの中、お祭りや行事は控えようということなのでしょうけど、、
なんだかなぁ。。

むしろ被災地の方では、なんとしてでも入学式を行おうとか
桜まつりを行おうとか、努力されたりしている。
遠く離れたこちらで、いろいろな行事を自粛することに意味があるのだろうか。
ほんとうにやるべきではないことだと、考えた上での判断ならば
それも意味があるのかもしれないけれど・・
このごろになって、自粛も考えもの、という意見も聞かれるようになってきたことだし、
本当に中止にしなければいけないのか、考えなおして、再度の変更ってこともありにしてほしい。


それと、忘れてはならないこと。
被災地でないところにいる我々にも、いつ何があるかわからないということ、
来年の桜や花火も、もしかしたら見ることができないかもしれないということ、
こんなに元気にしているのに、そんなことありえないっておもうかもしれないけど・・
だけど、人の命に限りがある以上、百パーセント見られるという保証はないはず。
今生きている人の中にも、来年の春、夏には、病気や事故やあるいは災害で亡くなる人が
でてくるのかもしれない。それは自分かもしれない。
今回の災害も東北地方中心だったけど、それはたまたまそうであっただけで
もしかしたら東海や関東、関西である可能性もあったのだとおもえば、
自分たちのいのちだって、いつも死と隣り合わせだということ、
あたりまえのことだけど、普段はほんとに都合よく忘れてしまっている。
今度のことで、いやというほど思い知らされたわけだけど、
時間がたっても、このことを忘れないように心にとめておかないといけないんだとおもう。


これを書いている今日、午後からどんどんと気温が上がってきて、まるで初夏のよう。
マンションまわりのケヤキの枝枝から、若葉が芽を出し、ぐんぐんと成長を始めています。
桜の季節をじっくり味わう間もなく、すでに新緑の季節がそこまでやってきているようです。
待ちかねていた春だったのに、ほんとうにあっという間に、駆け足で過ぎ去ってしまいそうな今年の春。
つぎの新緑の季節こそは、もう少ししみじみと味わえるとよいのだけれど・・

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新しい言葉への出発 [ニュースより]

今回の大震災を前にして、多くの人が言葉を失っているようです。
なにをどう書いたらいいのか、どんな言葉を発したらいいのか、
何を言っても虚しくなりそうで、ふさわしい言葉がみつからないと。

そんな中で、テレビなどのメディアを中心に、しきりに聞こえてくるのが
「いっしょに頑張ろう!」「あきらめないで」「頑張って!」という励ましの言葉。
多くの家が流され、町が壊れ、産業が破壊され、
日々の暮らしもままならない被災者が、信じられないほどたくさんいらっしゃる。
こんな状況の中では、とにもかくにも、一日も早くまともな生活できるようにしなければならない。
だから、みなで協力し頑張っていかなければならないことは、当然ともいえるのだろう。
物質的な復興のためには、必要不可欠な言葉でもあるのかもしれない。

しかし、精神的な面においては、この「頑張って」「日本はひとつ」という類の言葉は、
被災者の心を癒し励ますのに、ふさわしい言葉なのだろうか。
励まされると言う人も、ある程度はいらっしゃるのかもしれない。
でも、おそらくは十分な言葉ではないだろう。
本当に必要な言葉は、もっと違う言葉なのであろう。
そして必要としているのは、おそらくは被災者だけではなく、
さっきまでいた人やあったものが一瞬にしてなくなってしまう現実を目にして、
これまでの価値観がぐらつき、衝撃を受けている多くの人たちもまた、
本物の言葉を欲しているのではないだろうか。


こんなことを考えていた頃、
地元紙朝刊のコラムに、次のような文章を見つけました。


中日新聞3月26日付朝刊より 『新しい言葉への出発』
***************************************
 東日本大震災後、メディアには言葉があふれた。
刻々と伝えられる被災地の状況、福島第一原発の危機、各界の専門家の切迫した解説など。
押し寄せる情報を前に、ある種の空虚感に見舞われた。
荒廃の地に立ちすくむ人、肉親を捜してさまよう人の背中が放つ言葉なき言葉に比して、
日常の側にいる者の言葉の無力さを思い知らされたからだ。
 かといって、なにをどう言ったら血が通うのか、ふさわしい言葉がみつからない。
大震災から半月、詩人や作家たちが、言葉の力を見直そうと
朗読会など各種イベントを計画していると聞く。
かつてサルトルが「飢えて死ぬ子どもを前にしては、文学は無力だ」
と発言し、そこから「文学は何ができるか」をめぐる論争が起きた。
その「文学は何ができるか」の問いかけが、この災害によって改めて浮上しつつあるようだ。
 昨日まであった日常の言葉を大津波はさらっていった。
瓦礫と化したこの地上から、文学はどのように再出発するのか。
この先、書かれるものは、二万五千人を超える死者・行方不明者、失われたいくつもの町、
生き延びた者への思いなくして成立しないだろう。
破壊された場所から生まれる新しい言葉、消えたものと共に歩いていく言葉を我々も探らねば・・・。

***************************************


多くの文学者は、これから先どのような作品を書いていかれるのだろうか。
池田さんが生きていらしたら、どのような言葉を発せられただろうか。
もう聞くことができないのは残念であるけれど、
これまでに残されたたくさんの書物の中に、ヒントになるようなことが
書かれているのかもしれない。
ここのところ、手もとにある本を再び広げ、たまに読んだりしている。

柳田邦男さんや中島義道さん、多くの文学者や文筆家、哲学者の方々
今後どのように言葉を紡いでいかれるのか、これから書かれるものに注目していきたい。


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"Tears In Heaven" [音楽]

今朝の中日新聞朝刊、”中日春秋”には、エリック・クラプトンの”Tears In Heaven”のことが書かれていました。
懐かしい・・以前に、何度も何度も聴いた曲だったから。

この曲は、彼の代表作のひとつであり、素晴らしい名曲でもあるのだけれど、
今は亡き彼の息子に捧げられた、切ない歌でもあるのです。
1991年、当時4歳だった彼の息子コナーちゃんは、
米ニューヨーク・マンハッタンにある高層コンドミニアムの53階から転落死してしまったのでした。

コラムの中ほどには次のようなことが・・

・・・・・・・・・・・・・・・・
<もし天国で会ったら、君にはお父さんの名前が分かるかな>
などと語りかける曲には父の無念さがにじみ、胸を打つ。
頽(くずお)れそうな自分を鼓舞するような<お父さんは頑張って生き続けなくちゃならない>
という一節も切ない。
そこに使われている英語は、carry on。継続する、頑張り抜く、持ちこたえる、といったニュアンスだ。
第2次大戦中、ドイツの激しい攻撃にさらされたロンドンでは<Carry on London>が抵抗の標語だった。
今、それをJapanに置き換えてかみしめる。
大震災による喪失はあまりに大きいけれど、私たちは、持ちこたえ、できる部分では「日常」を継続させていかなければならない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


今朝、もう見ないでおこうと思っていたのに、ついテレビで見てしまった・・
小学校に行っていた娘さんが、津波で流され、まだ見つからない。
息子さんは昨日遺体で発見されたという。
想い出のものがないかと、小学校があったところへ、毎日探しに来ているのだという。
報道員が非情にもマイクを向け、ご両親にインタビューをしている。
涙をぼろぼろ流すでもなく、淡々と答える様子が、見ていて余計につらい。
気の毒とか悲しいとかというより、胸が、心が痛い。
自分がかつて経験した感情が、再び蘇ってきたのかもしれない。
どれほどの喪失感の中にこのお二人がいらっしゃるのかとおもうと・・
いや、今はまだ現実を受け止めきれていなくて、茫然自失状態にあるのかもしれない。

橋や道路、家や車は、倒れ流されても、
大変ではあるけれど、再び作り上げることはできる。
がんばって再興しよう!頑張れ!と励ますことはできるのかもしれない。
でも、我が子を一瞬にして亡くされた親御さんに向けては、
頑張れとか、そんなことばは励ましにもならないだろう。

突然の事故で愛息を失ったクラプトンも、絶望や無力感、たくさんの涙の末に、
この曲を作り、I must be strong and carry on.・・・・と歌ったのだろう

今は悲しみに暮れている方々にもいつか、時間はかかるかもしれないけれど、
どうか心穏やかに過ごせるときが訪れますように
私には、ほんとうに祈ることしかできないけれど・・

Eric Clapton - Tears In Heaven
http://www.youtube.com/watch?v=gKlcuEdtGVo&feature=fvsr


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"Grow Old With Me"~ジョン・レノン最後の歌 [音楽]

ジョン・レノンが残した最後の歌
「Grow Old With Me」
シンプルな歌詞
優しいメロディー
語りかけるような歌声

心に沁み入る曲、
聴くたびに泣きそうになる。

「Grow Old With Me」 by John Lennon
http://www.youtube.com/watch?v=HwImQQUP4P0&feature=related

Grow old along with me
The best is yet to be
When our time has come
We will be as one

God bless our love
God bless our love
・・・・・・・・・・・・・・・・


ジョンが凶弾に倒れる1ヶ月前、
ダコタハウスにて、ヨーコのために歌った作品。
正式な録音はなく、ヨーコの手元に残った1本のテープを元に、アルバムに収録された。

「今も、涙がでるの 私に向かって、こう歌って、そしていなくなった。
彼の最後の歌。 イマジンのように重い歌です」
と、ヨーコは呟く。


一緒に年を重ねよう・・そう歌ったわずか1か月後に、ジョンは帰らぬ人となってしまったのです。
ヨーコはどんな想いでこの曲を聴いたのだろうか。

最愛の人がある日突然いなくなってしまう。
自分が命を失うことよりも、他のどんなことよりももっともつらいことのように思えるのです。

今、悲しみがたくさんたくさん、日本中を覆っている。
地震津波災害の放送を見ていて一番つらいのは、なにより
家族を子どもを亡くして悲嘆に暮れている人たちの姿。
会社に出ていて、もどってきたら家が流され家族の姿が子どもの姿がなくなっていた。
嘆き悲しむその姿は、あまりにも辛すぎて見ていられない。

津波は愛する家族も、家や家財も、想い出のものも、すべてを押し流してしまった・・
目の前からすべてが消え去ってしまった。

いや、すべてが消え去ってしまったのだろうか。
ともに過ごしたたくさんの想い出、大切な人を思う気持ち・・
津波でも押し流すことができないものがあるはず、たとえ形にはみえなくとも。。

ジョンがいなくなってからも、ヨーコは彼の歌とともに、
世界に向けて愛と平和のメッセージを伝え続けている。
彼の魂もまた、ヨーコとともに生き、私たちに向けてメッセージを送り続けてくれているよう。

形はなくとも、目にはみえなくとも、伝わるものがある、
失ってはいないものがたしかにあるんだということを。


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