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いまを生きるための歎異抄入門より~星野富弘さんの詩とかかわって [本(その他)]

星野富弘さんについて、柳田邦男氏以外にも
どなたかが書かれていたような気がしていながら思い出せずにいたのですが・・

3年ほど前になるでしょうか。
青木新門さんの「納棺夫日記」を読んでから、「歎異抄」に興味を持ち、
そのとき読んだ一冊が、佐々木正氏の「いまを生きるための歎異抄入門」でした。

この本には、星野富弘さんの、この詩「いのちより大切なもの」の引用を始め、
キュープラー・ロス、フランクル、河合隼雄、五木寛之、夏目漱石、三島由紀夫、青木新門・・
著名な文学者から心理学者まで、数多くの方々の言葉を引用されています。
また、オウム真理教、臓器移植問題などにも言及されたり、
単に「歎異抄」の解説だけにとどまらず、さらに広がりのある実に内容の濃いものになっています。


佐々木氏は、この本の中で2度、星野さんのこの詩を引用されています。
1度目は「歎異抄」第2章のところ、2度目は「無碍の一道」に触れた第7章のところです。

2度目の引用の中から、次に一部紹介したいと思うのですが、
その引用部分の前に、佐々木氏は<マ・コト>について、
『親鸞が死の問題に直面して求めた「ほんとうの仏教」、この<ほんとう>は、<マ・コト>と同じである。』と述べられています。


以下、p186~

いのちが一番大切だと思っていたころ
生きるのが苦しかった
いのちより大切なものがあると知った日
生きることが嬉しかった。


 この詩の最初の2行は、いのちを最大の価値と位置付けたときの、私たちのすがたです。まさに「いのちあってのものだね」ということです。生きることを絶対の価値と見なしている。裏返せば、死ぬことが絶対の悪であり不幸の極みであることになります。
 生という言葉は、言うまでもなく対語です。反対を指示する言葉があるから、その意味が保たれているのですね。・・・・・・
 相対言語は(対語)は、相手がいなくなると存在できないのですね。生は死があってはじめて成り立つのです。その死を否定して生きることは、生を否定することと同等なのですね。死を認めない人生は、生きることの実質を喪失していることになります。
 ですから星野さんの詩の後半の二行は、死ぬ事実を承認したところから、生まれてきた言葉だとおもうのです。生と死が表裏である(仏教では一如といいます)と納得したとき、はじめて感得された実感ではないかと思うのです。死を承認したとき、生だけで成り立っていた価値はすべて色あせてしまう。そのときに<マコト=ほんとう>がいちばん切実な問題として浮かび上がってきた。そのような経路をたどって生まれた言葉が、この詩の後半の二行ではないかと思うのです。



<マコト>とは、親鸞の求めた<ほんとうの仏教>の<ほんとう>と同じであり、
「歎異抄」第7章冒頭の「無碍の一道」にも通ずるものであると、佐々木氏は述べられています。
「いのちより大切なもの」すなわち「マコト」であり「ほんとう」であるものの発見の瞬間
「無碍の一道」が足元に開かれ、「ほんとうの自由」が目の前に広がってくるのだということ、
このマコトについても、佐々木氏はもう少し詳しく述べられているのですが、こちらでの紹介はここまでとしておきましょう。



いまを生きるための歎異抄入門 (平凡社新書 (070))

いまを生きるための歎異抄入門 (平凡社新書 (070))

  • 作者: 佐々木 正
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2001/01
  • メディア: 新書



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