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「サヨナラの向こうに」細谷亮太先生 [テレビ番組(ドキュメンタリーなど)]

夕べ、何気なくテレビのチャンネルをかえていたら
細谷亮太先生の特集が流れているのに気づいた。
「子供の命をみつめて」という大きいタイトルのなかに
この日はさらに「サヨナラの向こうに」というタイトルがつけられていた。
そういえば、1年位前にも、細谷先生の特集をテレビでみたことがあった。
おそらくこのシリーズのどれかをみたんだろう。
この日の放送も、1年前の再放送ということらしい。
私がみたのは、この日の放送の最後5分くらいだけ。
四国遍路の旅に出ている様子がちらりとうつって
あとは、もう最後のまとめの部分だけだった。
それでも、最後に語られた細谷先生の言葉がとても印象に残った。

「亡くなった子どもたちが、ときどき私の様子をみにやってきているのを感じることがある。」
「生きている子からも、亡くなった子からも、教えられている。」

子どもたちって、ほんとにすごいとおもう。
本人たちは意識してないだろうけど、日々子どもたちから教えられることはたくさんある。
生きている子にももちろん。
亡くなった子からももちろん。
生きている子からと亡くなった子からとは
教えられる中味は、同じではないかもしれない。
でも、「教えられてる」ということには、かわりはない。

もうひとつ印象に残った言葉。

「母親は、子育てをしながら、もう一度生きなおしている。
そういう意味で、自分も過酷な状況のなかで、生きなおしているという感がある。」

言葉の表現は若干ちがうかもしれないけど
内容はこんなようなことだったとおもう。
子育てしながら、子どもとともに日々活動し
いっしょに喜び、感動し、悲しみ・・・
忘れかけていた、子ども時代をもう一度子どもとともに
やり直しているようなところがある。
そのときそのときを、子どもとともに楽しんできた自分は
たしかにそうおもう。

こんなことも書いてあった。

子どもの死に立ち会っては涙を流す自分がプロではないように感じ悩んできた。しかし今では、逆に「涙を流せなくなったらこの仕事をやめる」と考えている。


こんな風にいわれる細谷亮太先生は
小児科医としてももちろん、人としても素敵だなあとおもう。

最後の5分くらいしかみられなかったけど、印象に残った言葉はこんなにもいろいろあった。
今夜、NHK教育サブチャンネルで8時25分から放送されるようなので
録画して最初からみることにしよう。

こんなHPもありました。
これは、一年前のものみたいですが・・

http://www.nhk.or.jp/shiruraku/200707/wednesday.html
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月命日というもの [思うこと]

晴香の月命日、よく忘れてしまう。
子供さんを亡くされた方の日記などをみていると
月命日には、毎回お寺さんにきてもらってお経をあげてもらうとか
親しい人がお花をもってお参りにきてくださるとか
さらには、月命日にかかわらず、毎朝お経をあげている
とかいう人もみえる。

自分は、そんなふうに特別にお参りしたりお供えしたり
お経をあげたりするどころか
月命日そのものを忘れてしまっていることもしょっちゅうある。
忘れていないときでも、特別なにもしない。
もちろん、お水やご飯などといった日々のお供えはいつもと同じようにしているにはしているのだが。。

元来、あまり信心深いほうではないので、
お経を唱えるとか、お線香をあげるとか、お供えをするとか
そういうことに、もともと積極的なほうではないのかもしれない。
だから、月命日といっても特別なにかをという気にならないし
やらなかったからといって、忘れたからといって自分自身罪悪感をもつことはないと思っている。
もともと、月命日なんていうのはたまたま亡くなった日にちと同じ日だということだけなのだから
それに、あえて意味づけをする必要もないんじゃないの
ともおもえるし。
それでも、命日はやっぱり特別だけどね。

そんな風におもってはいるのだけど
だけど、心のどこかで、ちょっぴり罪悪感のようなものも
感じてるみたいなので、それがどうしてなのか自分でもよくわからない。
すっかりわりきってしまってるのなら、気にする必要もないのに
どこかで、忘れたりしてる自分を責めてたりもして。
ほんと、よくわからない自分。。

月命日を忘れたからと言って
晴香のことを忘れてるわけじゃないんだけど。
忘れられるわけがない。
晴香のことを想わない日はないし
仏壇よりも、こうやってパソコンに向かいながら
あれこれ、考えたり思い出したり。。
何年か前から、こうやって過ごすことがあたりまえになってしまってる。

5年が過ぎて、思い出すことが少なくなるかといえば、まったくそんなことはない。
それどころか、このごろではますますいろんなときの晴香が突然思い出されて、思い出すと同時に目頭が熱くなってきたりもする。
こういう感覚は何年たってもちっともかわらない。
思い出す場面は、小さいころから病気になってからのときまで
さまざまだけど、
でも、なんどもなんども脳裏によみがえってくる場面と言うのは
いつもきまってたりする。

夏の花火大会での晴香の笑顔
ハムスターを落としてしまって、意識をなくしたハムスターを前に、号泣する晴香
学校帰り、遠くから手を振って駆け寄ってくる晴香
病気になって、勉強がおもうようにできなくなり、泣きながら漢字をおぼえている晴香
一時退院したとき「家はいいなぁ」と言ったときの晴香・・・・

何度フラッシュのようにその場面、そのときの表情が蘇ってきたことか。
想いはかわっていない・・とおもう。
でも、月命日を忘れてしまう自分はやはり薄情な母親なのか。
割り切っているつもりでも、どこかでひっかかっている自分がいる。

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頭と心、そして現実は・・ [思うこと]

先月上旬からずっと体調に異変があって、
大好きなテニスもしばらく休み、外出も控え気味にして、家でおとなしくすごしていました。

娘が「病院にいってきて!」と何度もいうので、病院いくのは気がすすまなかったけど
先々週の金曜日におもいきって行ってきました。
念のためにガン検診しておくねと医者に言われ、その場で検査。
その結果が先週の金曜日にわかるということで
先日結果をきいてきたら、陰性とのことでした。

たぶん大丈夫だろうとはおもっていたのですが
結果をきくまでは、なんとなくいやなもので。
もしや・・・とか
なんだかいやなことも、ちらりと頭をかすめたりしました。

一度は、自分の体なんてもうどうでもいいやとか
長生きなんかしなくてもいいやとか
そんなこともおもったりしたものですが
こんな風に、気にかかるということは
自分の命に執着ができてきたということなのでしょうか。

いや、頭では、たとえ明日命がなくなったって
そういうこともありえないことではないし
もしそうなっても、まあしかたないかな
ただ、子供とか親には悲しい思いさせてしまうから
それだけが気がかりだけど・・
なんて、今でも考えたりもするのですが・・・
いざ、こんな風に病気の疑いや、宣告を受けるときになると
頭で考えるのとは、少し違うみたいです。

命がなくなるのが・・・と言うこと以上に
もしかしたら、病気になるのがいやということなのかもしれないけど。
病院きらいだし、病気と闘う根性ないし
痛いのも苦しいのもいやだし。。
結局、ああだこうだいってても、いざとなったら
じたばたしてしまうんだろうなぁ。頭と心と、そして現実はきっとそれぞれちがうんだろうね。

腎臓ガンと闘って、亡くなった池田さん。
宣告を受けたときに「これで開放される」
というようなことをおっしゃったとか、書かれていたとか
たしかなにかでみた覚えがあります。
病気のことも、自身の命があとわずかなのだということも
ほとんど書かれてないので、これに関する彼女のおもいを
詳しく知るすべはないのだけど。
「生」と「死」と、考えに考えられてこられた池田さんのことだから
きっと現実にじたばたすることなく、自然体でいられたんだろうなぁ。

頭で考えること、心で感じること、そしておもいもよらぬ現実に直面したときの自分の姿
どれもが同じであればいいのだろうけど、なかなかそうはいかない。
考えることと感じることの微妙なずれ。どうにもならないことを前に
普段冷静になって考えてることが、ほんとうにあっというまにすっとんでしまう現実。
こんな中で、葛藤しながら過ごしている自分は、凡人であるからこそということなのでしょうか。

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