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新しい言葉への出発 [ニュースより]

今回の大震災を前にして、多くの人が言葉を失っているようです。
なにをどう書いたらいいのか、どんな言葉を発したらいいのか、
何を言っても虚しくなりそうで、ふさわしい言葉がみつからないと。

そんな中で、テレビなどのメディアを中心に、しきりに聞こえてくるのが
「いっしょに頑張ろう!」「あきらめないで」「頑張って!」という励ましの言葉。
多くの家が流され、町が壊れ、産業が破壊され、
日々の暮らしもままならない被災者が、信じられないほどたくさんいらっしゃる。
こんな状況の中では、とにもかくにも、一日も早くまともな生活できるようにしなければならない。
だから、みなで協力し頑張っていかなければならないことは、当然ともいえるのだろう。
物質的な復興のためには、必要不可欠な言葉でもあるのかもしれない。

しかし、精神的な面においては、この「頑張って」「日本はひとつ」という類の言葉は、
被災者の心を癒し励ますのに、ふさわしい言葉なのだろうか。
励まされると言う人も、ある程度はいらっしゃるのかもしれない。
でも、おそらくは十分な言葉ではないだろう。
本当に必要な言葉は、もっと違う言葉なのであろう。
そして必要としているのは、おそらくは被災者だけではなく、
さっきまでいた人やあったものが一瞬にしてなくなってしまう現実を目にして、
これまでの価値観がぐらつき、衝撃を受けている多くの人たちもまた、
本物の言葉を欲しているのではないだろうか。


こんなことを考えていた頃、
地元紙朝刊のコラムに、次のような文章を見つけました。


中日新聞3月26日付朝刊より 『新しい言葉への出発』
***************************************
 東日本大震災後、メディアには言葉があふれた。
刻々と伝えられる被災地の状況、福島第一原発の危機、各界の専門家の切迫した解説など。
押し寄せる情報を前に、ある種の空虚感に見舞われた。
荒廃の地に立ちすくむ人、肉親を捜してさまよう人の背中が放つ言葉なき言葉に比して、
日常の側にいる者の言葉の無力さを思い知らされたからだ。
 かといって、なにをどう言ったら血が通うのか、ふさわしい言葉がみつからない。
大震災から半月、詩人や作家たちが、言葉の力を見直そうと
朗読会など各種イベントを計画していると聞く。
かつてサルトルが「飢えて死ぬ子どもを前にしては、文学は無力だ」
と発言し、そこから「文学は何ができるか」をめぐる論争が起きた。
その「文学は何ができるか」の問いかけが、この災害によって改めて浮上しつつあるようだ。
 昨日まであった日常の言葉を大津波はさらっていった。
瓦礫と化したこの地上から、文学はどのように再出発するのか。
この先、書かれるものは、二万五千人を超える死者・行方不明者、失われたいくつもの町、
生き延びた者への思いなくして成立しないだろう。
破壊された場所から生まれる新しい言葉、消えたものと共に歩いていく言葉を我々も探らねば・・・。

***************************************


多くの文学者は、これから先どのような作品を書いていかれるのだろうか。
池田さんが生きていらしたら、どのような言葉を発せられただろうか。
もう聞くことができないのは残念であるけれど、
これまでに残されたたくさんの書物の中に、ヒントになるようなことが
書かれているのかもしれない。
ここのところ、手もとにある本を再び広げ、たまに読んだりしている。

柳田邦男さんや中島義道さん、多くの文学者や文筆家、哲学者の方々
今後どのように言葉を紡いでいかれるのか、これから書かれるものに注目していきたい。


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コメント 4

plant

こんにちは。
私も「ガンバッテ」という言葉はうまく使えません。
使うとすれば、社交辞令で済む程度の“心ない”場面です。
あるいは、受験で合格して開放感いっぱいの人に向かって“心から”そう言って、機嫌を損ねたことも・・・。

池田晶子さんは、哲人としては何も発言されないのではないでしょうか。
阪神大震災に関しても、これを機会に騒ぐ人たちを批判する程度だったかと記憶します。
近い話として思い出すのは、「テロ以降を生きるための私たちのニューテキスト」というオムニバス本に9.11テロに関連した文章が載っていたことです。
結びの一文は、「現象にすぎないとわかってはいても、人々の悲しみ、その祈る姿に、涙がドーと溢れるのはどういうわけか。いや、現象にすぎない、わかっているからこそ。」
ご本人の著書にも再録されていたと思いますが、何だったか忘れました。

今気づいたのですが、中島義道さんも寄稿されています。
池田晶子さんの文章と表裏の関係になるような内容です。
by plant (2011-04-07 21:38) 

はるママ

plantさん、nice&コメントありがとうございました。
池田さんの「テロ以降を生きるための私たちのニューテキスト」は、まだ読んだことがないので、今度図書館へ出かけたときに探してみたいと思います。
私が最近読み返した池田さんの作品の中にも、地震や災害について書かれたものがあったのですが、池田さんらしいはっきりばっさりとした調子で書かれているものが多かったです。
巨大地震や災害の前では、人びとが築き上げてきた現代文明や巨大都市がいかに脆いものか。科学の力を万能と信じ、それらの災害からも守ることができると思っている人間が浅はかであること、そして人が「必ず死ぬ」という絶対的事実の側から見れば、いつどこでどのようにしてということは問題になり得ない・・というような調子で。

plantさんが、紹介してくださった件は、情緒的な面があらわれていて池田さんもこの時期に、このような文章を書かれていたのだと、改めて発見した気持ちです。
最後にかかれた「暮らしの哲学」も、それまでの池田さんの文章に比べて優しさと情緒が溢れていてとても好きなのですが、それを思い起こさせるような一文ですね。

by はるママ (2011-04-08 22:08) 

E

はるママさん

「昨日まであった日常を大津波はさらっていった」-まさにその通りですね。あさのあつこさんはそれを、「あらゆるものが剝き出しになった」と表現しています。
けれど、日常の言葉が津波にさらわれ、その後に異質な光景が立ち現れたからといって、新たな言葉がすぐに見つかるはずもありません。
このような空白に耐えらない一群の人々がいま、<頑張ろう>の大合唱をしているのでしょう。
けれど、空白に耐え、もっと深く言葉を求めようとしている人もいるのではないでしょうか。
「破壊された場所から生まれる新しい言葉、消えたものと共に歩いていく言葉」-このような言葉は、全体主義的な昂揚からは遠いものだと思います。かなしみとともに遠く旅をし、いのちちともに還ってくる静かな言葉を、いまは辛抱強く待ちたいのです。

池田さんならどんな言葉を発したのか、本当に知りたいところですね。
初期の池田さんは、死んでも絶対精神に還っていくだけという認識を持たれていたかと思いますが、晩年には、それならなぜ人は個人として生まれてくるのか、という不思議に思いをめぐらせていたようでもありました。
日常の言葉が津波にさらわれたいまこそ、哲学の言葉が求められていますね。
by E (2011-04-09 22:39) 

はるママ

E・Gさん、コメントありがとうございます。

>かなしみとともに遠く旅をし、いのちちともに還ってくる静かな言葉

素敵な表現ですね。
深く大きくそして温かくて、なんとなく大峯顯さんの言葉を思い出しました。
哲学の言葉とともに、大峯さんのような方の言葉も聞いてみたいです。

また、
>いのちとともに・・
の言葉に、川上未映子さんがブログに書かれている文章を連想しました。
http://www.mieko.jp/blog/2011/04/post-e99b.html

最後の部分
>津波にも地震にも奪いきれないものが、わたしたちの中にはある。
がとても印象に残っていて、これを読んで以来なぜだか、何度も何度も頭の中に浮かんできます。
考えれば考えるほどに不思議ないのちというもの、あまりにも儚く
同時に力強く逞しくもある、
たくさんのいのちが津波にさらわれた一方で、
新たに生まれるいのちがある、いのちは連綿と繋がっている・・
そしてまた、記憶の中に生き続けるいのちもある・・

かなしみとともに遠く旅をして還ってくる言葉が、どうか温かく穏やかで
多く人を癒す言葉でありますように。
私も辛抱強く待ち続けます。
by はるママ (2011-04-10 12:12) 

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