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震災から2年~『魂にふれる~大震災と、生きている死者』より~ [若松英輔]

あれから2年。
テレビ画面に映し出される被災地、
直後の瓦礫が多く取り除かれ、一面の更地になった町。
かつてはそこに家があり、人々の生活がありました。
いまだに町の再建は進まず、多くの方々が避難生活を強いられていらっしゃいます。
”原発再稼働”なんて言っていないで、被災地の人々の生活を取り戻すこと、
なにより先に進めていってもらいたいものです。

生活のための街や家、仕事・・
多くの方から、大切なものを奪っていってしまったけれど、
これらは努力していけばもう一度得ることも可能なものでもあります。
(ただ、元のままの故郷を取り戻せないという悲しい現実はありますが・・)
しかし、どんなに努力しても、どんなに叫んでみても、
決して取り戻すことのできないもの、
それは、亡くしてしまった大切な人のいのち。

子どもを、妻を夫を、母や父を亡くした人たちの悲しみの声。
「どうして自分だけ生き残ったのか」
「自分もいっしょに逝きたかった」
「自分だけ生きていて幸せになって申し訳ない」
「助けてあげることができなかった・・」「もっとこうしてあげればよかった・・」
どれもこれも、かつて自分が感じた思いと重なり、おもわず胸が目頭が熱くなります。

「悲しくて悲しくてどこにも誰にも気持ちをぶつけることができず
悶々としていたけれど、震災後に家族を亡くした人たちの集まりにでて、
そこで初めて自分の気持ちを言葉に出すことができた。
同じような立場の人と語ることで、初めて気持ちが楽になった・・」
こんな風におっしゃった方、
これを聞いて、池田晶子さんがかつて書いていらっしゃった言葉をおもいだしました。

「死の床にある人、絶望の底にある人を救うことができるのは、
医療ではなくて言葉である。宗教でもなくて、言葉である」
『あたりまえのことばかり』より

同じような経験をした方たちと語り合うことにより、
この方の気持ちは楽になった・・・
同じような経験をしたもの同士だからこそ、発せられる言葉はきっとその方の心のなかに
しみじみと沁み渡っていったことでしょう。
その方自身も、普段言えない言葉を発することができたのでしょう。

私自身、晴香を亡くしたあと、
ネットを通じて同じような方々の集まりに参加させてもらい、
書き込みをさせてもらったり、自分の書き込みに対してコメントをいただいたりして、
気持ちが楽になったことが何度もありました。
また、図書館や書店へも通い、多くの本を読んできました。
それらのほとんどといってもいいくらいが、娘を亡くす前とでは
あきらかに種類が変わっていました。
それらの中に、自分の心の救いとなるようなものや、
自分が悩み疑問におもうことへの、わずかでもいいから答えになるようなもの
手がかりになるようなものを、求めていたのでしょう。
読んでいてハッとさせられた言葉には、付箋を付けたり、本の端を折り込んだりし、
ブログに改めてまとめて書いてみたり。
書きながら、考えながら、そうこうするうちに、頭のなかが整理できたり、
気持ちが落ち着いたり。
こんな風にして9年あまりやってきました。
どん底にいた自分にとって必要としてきた言葉、
その言葉を読み、考え、書くことによって、随分と救われてきました。

震災後にも多くの本と出会いました。
その中から昨年読んだ一冊が
若松英輔氏の『魂にふれる~大震災と、生きている死者』

震災後に書かれた哲学エッセイのいくつかをまとめたもの。
池田晶子さんのことに多く触れられており、それだけでも興味深いのですが、
他にも柳田國男、小林秀雄、フランクル、神谷美恵子、西田幾多郎など、
なじみ深い人たちについても書かれていました。
エッセイのひとつひとつ中身が濃く、じっくりと時間をかけて読みました。


『やりきれなくて、悲しくて、独り、死者に呼びかける、どうすることもできなくて、呻く人の思いは、「結晶のような想いとして」この世界に現われる。・・・・・・・・・・・・・
 君の嘆きは、死者の世界では、透明な結晶となって、雪のように降り積もる。それを大切に拾うのは、亡くなった、君が愛するその人だ。ぼくには、世界に一つしかない貴重な石を大切にするように、 その人が結晶を慈しむのが、はっきりと見える。
 深く悲しむ君は、深く人を愛するころができる人だ。なぜなら、君は愛されているからだ。君が悲しむのは、君が想う人を愛する証拠だけれど、君もまた、愛されていることの証でもある。悲しみとは、死者の愛を呼ぶも う一つの名前だ。』   p14~p15 悲愛の扉を開くより

語りかけるような著者の言葉ひとつひとつ
読みながら、涙がぽろぽろ零れてきました。
闘病記や手記など読んでいて涙したことは何度もあるけれど、
哲学エッセイ、このような類の文章を読んでこんな気持ちになったのは初めてのこと。
まさに魂にふれる言葉に出会ったからなのでしょうか。
あるいは、なにもなくなってしまったかのように語られる死者の存在が、目に見えないなにかが
身近にたしかにあるのだということ、魂を感じることができたからなのかもしれません。


 『夜にひとり、部屋で悲しみに暮れて涙するとき、君は、自分を孤独だと思うかもしれない。誰も自分をわかってくれない、そう感じるかもしれない。でも、そのとき君は世界とつながっている。世に苦しみのない人はいないからだ。
 苦痛は、見えない世界で、私たちと他者を結び付けている。君が苦しんだ分、君の愛は深まっている。苦難が私たちを連れていく存在の深みは、歓喜のそれよりも深い。人生の深みで生きる、それは幸福に生きることと同じことだ。』   p16  悲愛の扉を開くより


この世界は、なぜだかその多くが対照となって存在しているようであり、
感じ方は相対的なものでもあるから、喜びしか知らないものには真の意味での喜びや幸福は
わからないといえるのだろう。
それゆえに、ほんとうのところを知るためには、苦難はさけて通れないことになっているのかもしれない。
わかるけれど、それはなんて皮肉なこと。
大切な人を亡くし、苦難の中で考え初めて気づく諸々のこと、
私たちはなんて悲しい存在なのでしょう。



 『死者と共にあるということは、思い出を忘れないように毎日を過ごすことではなく、むしろ、その人物と共に今を生きるということではないだろうか。新しい歴史を積み重ねることではないだろうか。「死者」は肉眼で「見る」ことはできない。だが「見えない」ことが、実在をいっそう強く私たちに感じさせる。』  p43 協同する不可視な「隣人」ー大震災と「生ける死者」ーより


『死者の姿は見えない。しかし、死者は寄り添うように私たちの近くにいる・・』  p89  没後に出会うということより


寄り添うように近くにいる死者たち、これは霊とかそういう類のものではない、
意識というか想いというのか、なんといっていいのかわからないけれど、
若松氏のおっしゃる魂というべきものなのかもしれない。
すぐ傍らにいてくれる、いつも一緒にいるという感覚、
死者も生者も共にあるという想い、
こんな中にあれば、絶望感も幾分か薄まり淋しさも和らいでくるのではないのだろうか。

自分自身、ますます目に見えるものがすべてでなく
生者も死者も、絶対的に違うのだというような以前のような考え方とは
ちょっと変わってきているように感じます。


言葉というものはほんとうに不思議なものですね。
こんな風に読んでいると、自分の気持ちの中にどんどんと入り込み、はっとさせられ、新しい何かが生まれているようにも感じられます。
以前のように多くは読まなくなってしまったし、こうやって書いたりすることも少なくなってしまったけれど、それでもすっかりやめてしまうことは、まだできそうにないですね。


長くなりましたが、最後に。
しばらく更新していない間に、アクセス数が30万を超えたようです。
今現在のアクセス数は、302,262
月に1度更新するかしないようなこんな超スローなブログに、日々200件前後ものアクセスをいただいているようです。お子さんやご家族をを亡くされた方が多く訪問してくださっているのでしょうか。
なにか少しでも参考にしていただければ幸いなのですが・・
次の更新がいつになるかさっぱりのブログですが、とりあえずもうしばらくはこのまま続けていくことにしましょう。


魂にふれる 大震災と、生きている死者

魂にふれる 大震災と、生きている死者

  • 作者: 若松 英輔
  • 出版社/メーカー: トランスビュー
  • 発売日: 2012/03/06
  • メディア: 単行本



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