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『金子みすゞの虚無』 [金子みすゞ]

金子みすゞといえば、『わたしと小鳥とすずと』の詩であまりにも有名な童謡詩人です。
この詩は、個性尊重をうたった詩として、小学校の国語の教科書にも好んで載せられています。
教科書以外のところでも目にすることも多く、おそらくは彼女の最も有名な詩ともいえるのでしょう。
しかし、それも3.11までは・・

震災以降、連日のようにテレビで流されたACのコマーシャル、
『あそぼっていうと、あそぼっていう・・・・こだまでしょうか、いいえ誰でも。』
印象的なナレーションで語られたあの詩、
テレビの影響というものはものすごいもので、あれ以来、金子みすゞの詩のなかで、
この詩が最も有名になってしまったかのようです。
「優しくて好き」「語りが単調で暗いから好きになれない」と、好みは分かれるようですが。。
しかし、世間一般では、あれ以来金子みすゞの詩は、「思いやりとやさしさにあふれ」「こういうときだからこそ絆の大切さに気付かせてくれる・・」など、『やさしさ』『絆』というイメージで多く語られているようです。

以前のわたしが金子みすゞの作品の中で知っていたのは、
『わたしと小鳥とすずと』と『はなのたましい』くらい。
前者よりも、後者の作品の方がとても印象に残っていて、
なんていのちを深く見つめ、やさしいというよりは、儚くさびしげな詩を書かれる人なのだろうとどこかでなんとなく感じていたのでした。

この詩の印象があって、それから彼女の送った生涯のことがあって、
そういうことのせいなのか、ACで、『優しさ。思いやり』の押しつけのようにして連日流されたコマーシャルに違和感を覚え、『今こそこの優しさあふれる詩集を・・』的なメッセージとともに書店に並べられていることにもなんとなく違和感を覚えていた、そんなとき、
地元中日新聞夕刊に、文芸評論家の尾形明子さんのエッセイを見つけたのでした。
『金子みすゞの虚無』とのタイトルを一目みて興味をひかれ、読んでみたところ、
今までぼんやりと感じていた違和感が一気に拭いされるようで、尾形さんのおっしゃっていることに
強く共感をおぼえたのでした。

エッセイ(7月4日中日新聞夕刊)から一部抜粋
*******************************
・・・・(略)・・・・・・被災していなくても、たいがいの人は、3.11以降、時間が止まったような思いを抱いている・・・(略)・・・・・・原子力のことなど、これまで考えたこともなかった、私をふくめた都会に住む人間は、自らの無知を恥じつつも、色も臭いも、音もなく大気の中に降り注ぐ放射能に、突然に気がつき動転している。そうした恐怖と心の底に広がっていく虚無感に、金子みすゞの詩はなんて似ているのだろう。

<お花が散って 実が熟れて その実が落ちて 葉が落ちて、 それから芽が出て 花が咲く。
 そうして何べん まはつたら、 この木は御用が すむかしら。 「木」>

 季節のめぐりの中で繰り返される、自然の営みに命の喜びを見るのではなく、「御用がすむ」時を待つ少女はすでに疲れ果てている。・・・・・・(略)・・・・・・
父親は、日露戦争後も続いた抗日運動の最中に死んだ。旗や花に囲まれた「おとむらいの日」の記憶が、あの「大漁」の詩に結実する。

<濱は祭りの やうだけど 海のなかでは 何萬の 鰯の とむらひ するだろう。 >

 暗転の魅力に満ちたこの詩に、私は反戦をみる。・・・・・(略)・・・・・・・
 義父の命令で余儀ない結婚をして女の子を生み、三冊の詩集を書き残して、1930年3月に自死する。遺言のような最後の詩に、

<誰も知らない野の果てで 青い小鳥が死にました。「雪」>

とあり・・・・・(略)・・・・・

26歳で命を絶った稀有な詩人を、「絆」や「やさしさ」の象徴として、国民的詩人にしてしまったなら、その底知れないニヒリズムも空洞も、絶望も、どこかに消えてしまうことだろう。

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尾形さんがエッセイの中で紹介されていた詩は、ごく一部だったのですが、
それでもとても引きつけられ、その後ネットを検索し他の作品も読んでみました。
そして先日は、金子みすゞ詩集も買ってきてしまいました。
彼女の作品には、一見やさしさおもいやりの感じられるものも多い。
しかしその多くは、自然をうたったものであり、
ときには「雪」になり「花」になり、そしてまたときには「星」や「土」にもなる、
そうして、花や雪や星の気持ちになって、その気持ちのままを詩の中に織り込んでいるように思われ、
人が人をおもやるという類の「おもいやり」というよりは、花も虫も土も星もすべてをひっくるめた、いのちをまるごと見つめているような、大きく深いものを感じます。
それとともに、これが一番感じたことでもあるのですが、
人も動物も植物も、地面も空も風も星もこの世界にあるものすべてが繋がっていて、
そしていのちが繰り返されているということ、
これは輪廻転生にも繋がっていくことなのでしょうけれど・・・
この繋がるいのちに対して温かな目線が注がれているわけですが、
あたたかさとともに、どうしようもないさびしさ、孤独というものが感じられてきて仕方がなのです。
これは尾形さんも書いていらっしゃるように、底知れないニヒリズムや空洞、絶望というものが金子みすゞの中に(というより金子みすゞが感じているこの世界の中に)根源的に存在するからなのかもしれない。
今金子みすゞの詩が我々の心を捉えるのは、尾形さんいわく
「底知れない怖さと虚無を含み、それが透明なベールで包まれているから」なのであり、
「コマーシャルのリズムにのってすっかり有名になったあのやさしい共生のイメージ」によるものではないのだろう。

コマーシャリズムに乗せられて、文学作品の真の意味を知ることなく、真のよさを味わうことなく
終わってしまうのなら、とても悲しいこと。
イメージの刷り込み、あやまった情報、そういうものに振り回されることが、今や文学の世界にまでも及んできたのだとしたら、悲しさを通り越して、なんだか虚しい気持ちになってしまう。

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