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今年の桜そして思うこと [思うこと]

今年は3月になってからもいつまでも寒くて、なかなか桜の蕾が膨らまず、
4月に入ってようやく咲き始めたとおもっていたら急に暖かくなり、
一気に満開になりました。

2011sakura.jpg

昨年の桜は今年とは対照的に、咲き始めてから気温の低い日が続いたためか、
じっくりと時間をかけて満開になり、そして長い間綺麗に咲き続けていました。

今年はというと・・
先週末あたり満開になったかなとおもったばかりなのに、
今週に入ってからつぎつぎ散り始め、もうすでに終りに近づいています。
月曜日、通りかかった地元の小学校でも、
強い風をうけて、花びらが吹雪のように舞っていて、
地面に落ちた花びらが、桜色の絨毯のように敷き詰められていました。

047.JPG

ほんとうに、あっけないくらいに早く散ってしまいそう。。

今年は桜の花もじっくりと鑑賞することなく、そして、
花見だけでなく、地元のお祭りも自粛のため中止になり、
なんとなく淋しい春になってしまいました。
夏に行われる恒例の長良川花火大会も中止になるのだとか。
世の中自粛ムードの中、お祭りや行事は控えようということなのでしょうけど、、
なんだかなぁ。。

むしろ被災地の方では、なんとしてでも入学式を行おうとか
桜まつりを行おうとか、努力されたりしている。
遠く離れたこちらで、いろいろな行事を自粛することに意味があるのだろうか。
ほんとうにやるべきではないことだと、考えた上での判断ならば
それも意味があるのかもしれないけれど・・
このごろになって、自粛も考えもの、という意見も聞かれるようになってきたことだし、
本当に中止にしなければいけないのか、考えなおして、再度の変更ってこともありにしてほしい。


それと、忘れてはならないこと。
被災地でないところにいる我々にも、いつ何があるかわからないということ、
来年の桜や花火も、もしかしたら見ることができないかもしれないということ、
こんなに元気にしているのに、そんなことありえないっておもうかもしれないけど・・
だけど、人の命に限りがある以上、百パーセント見られるという保証はないはず。
今生きている人の中にも、来年の春、夏には、病気や事故やあるいは災害で亡くなる人が
でてくるのかもしれない。それは自分かもしれない。
今回の災害も東北地方中心だったけど、それはたまたまそうであっただけで
もしかしたら東海や関東、関西である可能性もあったのだとおもえば、
自分たちのいのちだって、いつも死と隣り合わせだということ、
あたりまえのことだけど、普段はほんとに都合よく忘れてしまっている。
今度のことで、いやというほど思い知らされたわけだけど、
時間がたっても、このことを忘れないように心にとめておかないといけないんだとおもう。


これを書いている今日、午後からどんどんと気温が上がってきて、まるで初夏のよう。
マンションまわりのケヤキの枝枝から、若葉が芽を出し、ぐんぐんと成長を始めています。
桜の季節をじっくり味わう間もなく、すでに新緑の季節がそこまでやってきているようです。
待ちかねていた春だったのに、ほんとうにあっという間に、駆け足で過ぎ去ってしまいそうな今年の春。
つぎの新緑の季節こそは、もう少ししみじみと味わえるとよいのだけれど・・

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新しい言葉への出発 [ニュースより]

今回の大震災を前にして、多くの人が言葉を失っているようです。
なにをどう書いたらいいのか、どんな言葉を発したらいいのか、
何を言っても虚しくなりそうで、ふさわしい言葉がみつからないと。

そんな中で、テレビなどのメディアを中心に、しきりに聞こえてくるのが
「いっしょに頑張ろう!」「あきらめないで」「頑張って!」という励ましの言葉。
多くの家が流され、町が壊れ、産業が破壊され、
日々の暮らしもままならない被災者が、信じられないほどたくさんいらっしゃる。
こんな状況の中では、とにもかくにも、一日も早くまともな生活できるようにしなければならない。
だから、みなで協力し頑張っていかなければならないことは、当然ともいえるのだろう。
物質的な復興のためには、必要不可欠な言葉でもあるのかもしれない。

しかし、精神的な面においては、この「頑張って」「日本はひとつ」という類の言葉は、
被災者の心を癒し励ますのに、ふさわしい言葉なのだろうか。
励まされると言う人も、ある程度はいらっしゃるのかもしれない。
でも、おそらくは十分な言葉ではないだろう。
本当に必要な言葉は、もっと違う言葉なのであろう。
そして必要としているのは、おそらくは被災者だけではなく、
さっきまでいた人やあったものが一瞬にしてなくなってしまう現実を目にして、
これまでの価値観がぐらつき、衝撃を受けている多くの人たちもまた、
本物の言葉を欲しているのではないだろうか。


こんなことを考えていた頃、
地元紙朝刊のコラムに、次のような文章を見つけました。


中日新聞3月26日付朝刊より 『新しい言葉への出発』
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 東日本大震災後、メディアには言葉があふれた。
刻々と伝えられる被災地の状況、福島第一原発の危機、各界の専門家の切迫した解説など。
押し寄せる情報を前に、ある種の空虚感に見舞われた。
荒廃の地に立ちすくむ人、肉親を捜してさまよう人の背中が放つ言葉なき言葉に比して、
日常の側にいる者の言葉の無力さを思い知らされたからだ。
 かといって、なにをどう言ったら血が通うのか、ふさわしい言葉がみつからない。
大震災から半月、詩人や作家たちが、言葉の力を見直そうと
朗読会など各種イベントを計画していると聞く。
かつてサルトルが「飢えて死ぬ子どもを前にしては、文学は無力だ」
と発言し、そこから「文学は何ができるか」をめぐる論争が起きた。
その「文学は何ができるか」の問いかけが、この災害によって改めて浮上しつつあるようだ。
 昨日まであった日常の言葉を大津波はさらっていった。
瓦礫と化したこの地上から、文学はどのように再出発するのか。
この先、書かれるものは、二万五千人を超える死者・行方不明者、失われたいくつもの町、
生き延びた者への思いなくして成立しないだろう。
破壊された場所から生まれる新しい言葉、消えたものと共に歩いていく言葉を我々も探らねば・・・。

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多くの文学者は、これから先どのような作品を書いていかれるのだろうか。
池田さんが生きていらしたら、どのような言葉を発せられただろうか。
もう聞くことができないのは残念であるけれど、
これまでに残されたたくさんの書物の中に、ヒントになるようなことが
書かれているのかもしれない。
ここのところ、手もとにある本を再び広げ、たまに読んだりしている。

柳田邦男さんや中島義道さん、多くの文学者や文筆家、哲学者の方々
今後どのように言葉を紡いでいかれるのか、これから書かれるものに注目していきたい。


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