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辺見庸「神話的破壊とことば~さあ、新たなる内部へ」 [辺見庸]

3・11震災以来、さまざまな人たちがそれぞれの立場から発言をされています。
先日私にしてはめずらしく、『文藝春秋』5月号を購入しました。
柳田邦男、瀬戸内寂聴、曽野綾子、李登輝、石原慎太郎、玄侑宗久・・・など、
各界著名人、多くの識者からの寄稿文が載せられておりぜひとも読んでみたいと思ったから。
そんな中で、もっとも引きつけられた文章は、作家辺見庸によるものでした。

辺見庸氏は、宮城県石巻市出身。
小説家、ジャーナリストであるとともに、最近詩集『生首』で中原中也賞を受賞された詩人でもあります。
一瞬にして変わり果ててしまった故郷を前に語るその言葉ひとつひとつは、心に響くというよりは
むしろ心につきささってくるような激しさとすさまじさがあり、他の誰の文章よりも衝撃的でした。


文藝春秋5月特別号 「緊急寄稿 われらは何をなすべきか 叡知結集41人」
『辺見庸 神話的破壊とことば~さあ、新たなる内部へ』  より

『・・・・友人たちがわたしの生まれ故郷、宮城県石巻市の被災現場からもどってきた。彼らの話と、もちかえった映像は、新聞やテレビのそれとはずいぶんちがった。親や兄弟をうしなったかれらは、おもざしも声音も変わり、まるで石化したかのように寡黙になっていたのだ。ある者がそっとつぶやいた。「いっさいが整合しない。事実がすべてばらばらになって、ひとつのことがどうも他と結びつかない」。またあるものはひとりごちた。「事実がどーんとたちあがったけれども、それにみあうことばがない。ことばは事実にとおくひきはなされている」。浜辺にうちあげられた死者たちの映像より、神経系統をそっくりひっこぬかれたような友人たちの無表情、すっかり抑揚をなくした声にわたしはたじろいだ。いったい、なにを見たのか。かれらはなんにちも親兄弟をさがしてあるいた。口をそろえていうには、故郷は地震と津波の被災地というよりは、まるで大爆撃のあとのようだったという。未編集の映像は、たしかにどうながめても自然災害にはみえない。・・・・・(略)・・・・・・どうすればそのような造形が可能になるのか、波に押しながされた十数台もの車がおりかさなってガソリンに引火、つぎつぎに爆発して、しいていえば現代アートのように、そのまま黒っぽい車の塔になっている現場もあった。それはわたしやわたしの妹がよくかよっていた小学校の校庭だった。塔のなかには焦げた死者がすわっていたという。影たちのように。・・・・・(略)・・・・・・・

予感できなかったこと、それを過誤とはよべないか。落ち度といえないか。このたびの破壊の一面はおそらく数値化のまったく不可能な、およそ限度というもののない、いうならば神話的なまでの破壊なのであり暴力であった。それを予感しえなかったこと、措定しえなかったことをあやまちとよぶなら、いま、わたしたちがこれだけの神話的な破壊を叙述することばをさっぱりもちあわせていないことは、さらに救いがたいあやまちであるにちがいない。・・・・・・・(略)・・・・・

こうなったら、荒れすたれた外部にたいし、新しい内部の可能性をあなぐるいがいに生きのべるすべはあるまい。影絵のひとのようにさまよい、廃墟のがれきのなかから、たわみ、壊れ、焼けただれたことばの残骸をひとつひとつひろいあつめて、ていねいに洗いなおす。そうする徒労の長い道のりから新たな内面をひらくほかにもう立つ瀬はないのだ。新たなる内部では、2011年3月11日のまえよりも、もっともっとひととことばの深みに関心を向けようとわたしはおもう。しおさいと讖(しん)と兆しにもっと謙虚に耳をかたむけよう。・・・・・・・・』


テレビや新聞、さまざまなニュースなどの画像映像を通して、
津波や現地の被害がいかにものすごいものであったのかと、
少しは知った気になっていたけれど、本当の姿をわたしたちは見ていないのだと
改めて思い知らされるようです。
テレビでは決して映されていないものがある、
そこにこそほんとうの哀しみ、受け入れられない現実がある。
辺見氏の文章には、テレビなどで流されている映像よりもずっと真実の姿が
生々しく描かれていて、現地の人々の味わっている深い悲しみの一端が
伝わってくるようであり、今回の震災の恐ろしさすさまじさを垣間見る思いがします。

辺見氏は震災後、多くの詩を綴られており、『文學界』最新号(6月号)にも掲載されているようです。
つい最近では、NHKの番組にも出演され、震災について語られたようです。
辺見庸が語る大震災──瓦礫のなかから言葉をひろって──(NHK「こころの時代」)
この番組は4月に入ってから何度か放送されたようですが、どれも見逃してしまいました。残念。。
いつかまたBSあたりで再再放送してくれるといいのですが・・
どなたか、放送の情報得られましたらぜひ教えてください。


番組についての記事を追っている中で、
詳細に文字おこしされている方のブログ発見。
こちらにもリンクし、じっくり読ませてもらうことにしましょう。

shuueiのメモさんのブログより
「瓦礫の中からことばを 辺見庸」
http://d.hatena.ne.jp/shuuei/20110501/1304198241

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コメント 2

E・G

はるママさん、こんにちは。


「いっさいが整合しない。事実がすべてばらばらになって、ひとつのことがどうも他と結びつかない」。
「事実がどーんとたちあがったけれども、それにみあうことばがない。ことばは事実にとおくひきはなされている」

辺見さんのご友人たちの、無表情に化石化した顔、その唇から漏れた言葉の異様さが、すべてを物語っているようです。


ぼくのブログのなかでもコメントしたことですが、計り知れない喪失体験のなかで、これから深刻な問題になってくるのは、ニヒリズムの問題だろうと思います。
瓦礫になったのは津波に襲われた街だけではなかったのでしょう。同時にあらゆる意味と信じてきたものが瓦礫となったのです。人生を意味づけていたものが、あまりにもあっけなく覆されてしまったということ。この虚無、この無意味を、人は引き受け、乗り越えて行けるのでしょうか?

瓦礫となったのは、とどのつまり存在していることの意味でしょう。
ひとつになろうとか、頑張れとかいう情緒的で能天気な言葉では、この深甚なニヒリズムを克服することはできません。いま声を上げている人たちのスローガンの根底にも、このようなニヒリズムへの恐れが潜んでいるのですが、それと対峙するのではなく、ほんとうは自分自身がそこから逃がれたいために、大きな声をあげて自分自身を麻痺させているのではないでしょうか。存在の危機をもちろん彼等なりに感じはしたのですが、その危機感はせいぜい、スポーツや祭りの高揚感に似た感情で麻痺させ得る程度のものでしかなかったのです。

震災後の休日、近くの公園に行くと、何事もなかったかのように笑いさざめく人々の姿がありました。なんともいえないその違和感-もちろん楽しいことをやめてしまえなどと乱暴なこと、辛気臭いことを言いたいわけではありません。それでも幸せなはずのそんな光景に違和感を感じたのは、実はいままであたりまえのように人々が享受してきた幸せというものが、芝居の書割のように虚しく見えてしまったからなのです。それらの幸せは他人が不幸であっても、世界が悲惨であっても無関係に成立するものであるらしいのです。虚無(ニヒル)は、このめまいのするような落差のなかにもたしかにあると感じました。

けれど、深刻な顔で悲壮な言葉を書き綴っていくだけではやはり何かが足りません。むしろほんとうの幸せの言葉、ほんとうのいのちの言葉へと言葉(行為)を追求するなかから、ニヒリズムを超えていく世界は仄かに垣間見えてくるのかなと思います。

by E・G (2011-05-21 23:41) 

はるママ

E・Gさん
ある方がブログで次のようなことを書いてみえました。
「自分は今回の震災に本当に「地獄」を感じていたのか、報道の文字と避難者、行方不明者・死者の数字、そしてTVのたくさんの映像から自分は、被災者が口にする「地獄」を一部でも本当に感じていたのだろうか。」

これを読んだ自分自身も、同じようなことを感じました。
編集された映像からは、被災地の方々の味わった
本当の地獄は分からないのだと思います。
瓦礫の下に埋もれたままの多くの人たち、
体育館に並べられたたくさんの棺、
その中を身内を探して歩いて回る人びと。
そういう姿を目にしていたなら、「がんばろう」とか
「みんながひとつに」など軽々しく言えないと思うのです。

人が大きな喪失を経験した後、虚無感に襲われることは、
避けられないことなのかもしれません。
私も娘を亡くした後は、それまで生きてきた意味もわからなくなり
その後に生きていく意味もわからなくなってしまい、
自分が生きていることさえ辛く虚しくなってしまった経験があります。
虚無感に耐えられず、不条理に納得がいかず、
多くの本に救いと答えを求め、書店と図書館に通ったものでした。

今回の震災は、あまりにも突然で、しかもあまりにも多くの人を、
家を車を橋を、すべてを飲み込んで町ごとさらってしまいました。
その喪失感は計り知れないものがあるのでしょう。

>ほんとうの幸せの言葉、ほんとうのいのちの言葉へと言葉(行為)を追求するなかから、ニヒリズムを超えていく世界は仄かに垣間見えてくるのかなと思います。

「ほんとうの幸せ」で、宮沢賢治の言葉を思い出しました。
銀河鉄道の中で、出てきた言葉でもありましたし。
「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」という
言葉もどこかで書いてましたね。
震災後、宮沢賢治の作品が読みたくなって図書館で借りてきたのも
無意識のうちに自分の中でこういったものを求めていたのかもしれません。

>けれど、深刻な顔で悲壮な言葉を書き綴っていくだけではやはり何かが足りません。

そうですね。
真実を知るためには悲壮な言葉であっても現実を見つめることは必要なのでしょうけれど、そればかりでは足りないのでしょうね。
虚無感の底に沈んでいるばかりでは、いけない・・
救いをもたらすようなほんとうの言葉がやはり必要になってくるのでしょう。
by はるママ (2011-05-23 07:30) 

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