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感謝!10000アクセス [HP・ブログ]

晴香のHP(Memories~Haruka~)が1万アクセスを超えました。
一昨年の10月にHPを開設してからもうすぐ2年になりますが
その間に、こんなにもたくさんの方がいらしてくださったのですね。
ご訪問くださったみなさん、どうもありがとうございました^^

おもえば、この2年あまりの間、HPやブログを通じさまざまな出会いがありました。
みなさんからいただいたコメントやメッセージに、
励まされたり、考えさせられたり、共感したり・・・
おかげでひとりで堂々巡りするかのように悩むこともなく
ちょっと変な言い方かもしれないけれど、前向きに悩むというか
考えることができるようになったとおもいます。
 
最初は、何かをしないではいられないというような思いから
つくり始めたHPだったけれど、今では晴香や自分自身
あるいは、ご訪問くださる方々との
大切な対話の場となりました。

HPもブログも、なかなか更新できないこのごろですが
細々ながらも、まだしばらくは続けていくつもりですので
どうぞこれからもよろしくお願いします。


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「悲しみがやさしくなるとき」 [本(その他)]

先日自由書房にふらりと立ち寄ったときに
ある1冊の本が目にとまりました。
「悲しみがやさしくなるとき」
副題には子どもを亡くしたあなたへ
とありました。

この間の日記にはつぎは飯田さんの本でも・・・
と書いていたけれど、先にこちらの本が読みたくなり
購入してしまいました。

子どもを亡くされたたくさんの方、
そしてその言葉なども紹介されていました。
リンカーン、リンドバーグ、ケネディ・・・
いつの時代でも、子どもを亡くすということは
その親にとって、世界がひっくりかえるほどの大きな悲しみをもたらします。

書いてあることの一つひとつがどれもみな、心当たりのあることばかり。
まるで鏡かなにかで心の中を映し出されているかのようでした。

「私たちが子どもの死にこれほど打ちのめされる理由は何でしょう?
最もわかりやすい理由はおそらくこうです。生物に共通する自然の法則によって両親や配偶者の死に対する心構えはできていても、子どもの死に対する心構えはできていないのです・・・・」

医療が発達した現代では、人の「死」は、どこか遠くにあるもの
ましてや自分より若い子どもにも、縁のないもの
心構えなどできているはずなどないのです。
だから、子どもになにかあれば、天地がひっくり返ってしまうようなおもいにもなるのです。

「もう一つの理由として考えられるのは、子どもを保護すること、子どもの安全を守ることが親の務めに含まれているということです。
子どもの死は悲しみをもたらすばかりでなく、ちゃんと守ってやることができなかったという罪の意識をもたらすことがあります・・・」

子どもを亡くした後に罪の意識に苛まれるのは、親としての自然な感情からだったのですね。
私自身もおぼえがあります。
その時は、なんだかよくわからないままもやもやとしているばかりだったけれど。。。

他者(他人および家族など)との関係において感じる、違和感や戸惑い、すれ違い
などなど、他にも自分自身が感じたり、悩んだおぼえのあることも
たくさん書かれていました。

「お子さんは何人?」
と聞かれた時に、一瞬どう答えようかと戸惑う気持ち。
これも、まさに自分が感じた戸惑いそのもの。
(たしか自己嫌悪というタイトルで日記にも書いていたと思うけれど・・)

他にもたくさん、
これまで自分が感じてきたことが、そのままそっくりと書かれているようで
驚きと、なんだかわからないけれど安心感と(たぶん自分の感じてきたことが自然なことなのだとわかったから?!)をあたえてくれた本でした。

この本のほかに、またまた池田晶子さんの本を購入してしまいました。
「暮らしの哲学」と「残酷人生論」の2冊。
飯田さんの本はその後で。



悲しみがやさしくなるとき―子どもを亡くしたあなたへ

悲しみがやさしくなるとき―子どもを亡くしたあなたへ

  • 作者: エリザベス メーレン
  • 出版社/メーカー: 東京書籍
  • 発売日: 2001/08
  • メディア: 単行本


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椅子 [その他]

わが家では今、晴香の使っていた机を妹の沙織が、
沙織が使っていた机を私が使っています。

いずれも、子どもたちの小学校入学にあわせて購入したものですが
それ以来、机はもちろんですが
セットになっていた椅子も、ずっとそのまま使っていました。
さすがに中学生になった沙織には、椅子の高さが合わなくなってきたので
新しいものに買い換えることにしました。

古い椅子は、ガタつくようにもなっていたので、処分することに。
10年近く使い続けると、愛着がわいて、処分するのも淋しい気がします。
椅子自体には執着はないのに、淋しい気がするのはどうしてなのかな。
長い間子どもたちが使っていた物にはいろいろな思い出が染みついているので
それがなくなってしまうような錯覚を、一瞬おぼえるせいなのかもしれません。

そういえば、昨年の夏、15年近く使い続けた冷蔵庫を処分したときにも
冷蔵庫に貼ってあったポケモンのシールをみたときに
なんともいえない思いがしたものです。
冷蔵庫が運ばれていくときに、不安な想いに駆られたのは
懐かしい思い出が遠ざかっていくような、そんな気持ちになったからなのでしょう。

それでも、昨年よりもそういう気持ちは幾分薄らいでいるような気もします。
年月と共に・・・気持ちはかわってきているのか
それとも、あくまで物は物、という考え方ができるようになってきたのか。
はっきりとは、自分でもわからないけれど。


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