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池田晶子さん、今年で5年 [池田晶子]

このところブログの更新が滞りがちになっています。
書けるのは、月に1度かせいぜい2度くらい、中には1度も書けなかった月もあります。
以前は書かずにいられないような気持に襲われたりもしたのですが、
そういう衝動のようなものが、徐々になくなってきたのかもしれません。

それでも、ニュースをみたり、本や新聞記事を読んだりすれば、
あれこれおもうことや、ちょっと書き留めておきたいなとおもうこともあります。
そのときにちょこちょこっと書いておけばいいのでしょうが・・
そのちょこちょこっと書くということがなかなかできない。
書き出せば、おもいは膨れ上がり、おそらくはちょっとでは済まなくなってしまうだろうから。
それに、すっきりと頭の中が整理されているわけではないから、
書き出せば、きっと悩みながら考えながら、思いのほか多くの時間がかかってしまうだろうから。
気がつけば、あのことも、このことも、書かずにきてしまったなあというのが本当のところ。

先日の23日は、池田晶子さんの5回目の命日でした。
私が池田さんのことを初めて知ったのは、彼女が亡くなった直後のこと、
あれから5年が経つのですね。
最初の1年目は、実にたくさんの作品を読みました。
「14歳の哲学」や「人生のほんとう」「あたりまえのことばかり」「残酷人生論」
「勝っても負けても41歳からの哲学」「暮らしの哲学」
これらのどれもが印象的なのですが、中でも「暮らしの哲学」は一番好きな1冊、
「残酷人生論」は今も私にとってバイブルのような存在です。

その後も、「知ることよりも考えること」「死と生きる 獄中哲学対話」などなど・・・
たくさんの作品と出会ってきました。
池田さんの作品との出会いは、私にとってなくてはならないものであったし、
それは今でもかわらず、そしてこれかもずっと。
その時その時で必要な出会いというものは、人と人の間に限らず、
人と書物、人と作家との間にもきっとあるのでしょう。

池田さんが亡くなられた後、当然新たに書かれることはないわけですが、
新シリーズが出されたり(これまでのものをまとめたり、新たな装丁で再販されたり・・)
これまでの作品も、絶えることなく版を重ねているようです。
作品を通して今も私たちに多くを語りかけてださっているようであり、
まさしく池田さんが日ごろおっしゃっていた「魂は存在し続ける」、これですね。

池田さんがよくおっしゃっていた、「善く生きることにこそ意味がある」
このことについて、しばらく考えていました。
娘を亡くした後にも、無常観に囚われ、不条理に憤りや虚しさをおぼえたものですが、
今回の震災を目にして、あのころ味わった強い感情が再び蘇ってくるような感覚を覚えました。
もちろんそういう感情を、しばらく忘れていたわけではなく、
年月と共に、少しずつ心の奥に奥にと仕舞い込んでいっていたと言った方がいいのかもしれませんが。。

人はいつか必ず死ぬ、
それなのに、たとえいかに生きたとしても意味があるといえるのだろうか。
そんなことを考えながらも、だからといって、
「人生に生きる価値はない」と中島義道著書タイトルの如く、言い切っておわってしまうのもなんだか虚しい。

そんな中、年末から年始にかけて、久しぶりに池田さんの著書を読んでみました。
「考える日々Ⅲ」、パートⅠとⅡはもうずいぶん前に読んだのだけど、
シリーズ最後であるこの本は、読みたいと思いつつ実際に手に取るまでにかなり時間が開いてしまいました。
いつでも読めるかなという気持ちと、なんとなく読んでしまうのがもったいないという気持ち両方からなのか。

この作品は、2000年の12月に初版が出版されているようですから、
かれこれ11年ほども前に書かれたことになるのですが、
中に取り上げられているニュースネタなどはともかく、書かれている内容自体は、
今にも通じる普遍なもの。
読みながら付箋だらけになってしまいました。

そんな中から、上に書いたことに関連する個所を、ちょっとだけこちらにもメモ。

『ソクラテスの意志』p243 L10~12
ある価値がその価値たりえるのは、それらを価値たらしめている精神がそこに自覚されているからでしかない。精神を自覚することなしに、いかなる価値も価値たり得ない。

この後、「生きる意味」について「善くあること」について、もうちょっと頭の中を整理したく、
以前読んだ『残酷人生論』を再び開いてみました。
今回はとくに、「善悪」「魂」「幸福」と、後半部分を特に中心として再読しました。

「幸福」人生は終わらない p225にはこんなことが書かれていました。

  人生は今回限りではない
  人生はこれで終わりではない
これである。この認識の厳しさこそが、善く苦しむための力なのだ。なぜなら、魂の完成形としての「神」もしくは「善」が明らかに見えている限り、人生が今回限りであるにせよ、それは徒労に終わったことにはならないからである。今回は今回で立派に完結するからである。
  どうせ死んでしまうのに
この半端な腹のくくり方が、いかに魂を堕落させることか。

 
> どうせ死んでしまうのに
この半端な腹のくくり方が、いかに魂を堕落させることか。

最後のこの箇所には、ガツン!と頭を叩かれたような気持になってしまった・・
以前読んだはずなのに忘れていたのか自分。


再び『残酷人生論』より
「善悪」善悪は自分の精神にある p161~

 人の世の「なぜ悪い」をめぐるあらゆる議論が不毛なのは、内容によって形式を問おうとしているからだ。道徳を倫理だと思っているからだ。しかし道徳は強制だが、倫理は自由である。倫理は、直観された善への必然的欲求として行為されるから、自由なのである。善は、決して強制され得ない。それは、欲求されることができるだけだ。

善とは道徳ではない。欲求されるものである。
魂を意識してあるよき精神にこそ価値があり、善への必然的欲求もおきてくるというわけなのだろうか。
魂、精神・・・池田さんの書物を読み考える上で、大切なキーワードですね。

もうちょっと考えてみたくて、今はフランクルの『それでも人生にイエスという』を読み始めています。
読み終えたらまた、ここに本のこと書きたい、けれど・・・できるかな?

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