”戦うこと”~中島義道「人生を<半分>降りるより」~ [中島義道]
前回書いた中島義道さんの「人生を<半分>降りる」の中に興味をひかれるところがありました。
その中の一つ。「戦い」について語られたところ。
私は10年くらい前からテニスを始め、以来その面白さに取りつかれています。
30度を超す夏の暑い日にも、木枯らしが舞う冬の日にも、お正月と8月以外、年がら年中。。
それから、テニスに限らず、子どもたちのバスケットや野球を観るのも好き。
オリンピックやWBCのような国際大会も。サッカーは普段みないけど、WCだけは別。
白熱した試合をするのはもちろん、観るのもとても面白い。
へたなドラマや映画よりも、感動させられる。
スポーツ、あるいは競い合いというのは、私に限らず人を熱中させる魔力がありますね。
普段スポーツにあまり関心のない人でも、今回のワールドカップサッカーに夢中になった人は
かなり多かったようですから、普段見る見ないに関係なく、
このことは多くの人にあてはまるのではないのかと思います。
では、どうしてスポーツや競り合いというのが、これほど人を惹きつけるのか。
中島さんの文章に、これに関わることが書かれていました。
*********************************************
第3章「懐疑精神」のすすめ 「戦い」はわれわれの「自然」である より L135~
・・・つまり、人間はー文化を完全に廃棄しニシンのように生きることを決しないかぎりー他人を攻撃する衝動、他人に勝りたい衝動を消し去ることはできない。ホッブスは、この衝動をまるごと人間の本性=自然と認めました。
たしかに、世界中で催されているスポーツの祭典を見ますと、ローレンツやホッブスの言うことが正しいような気がしてくる。人間が「戦うこと」を好む生物であることは否定できない。たとえ身をもって戦わなくとも他人どうしの競争を観戦することが大好きな生物であることも否定できません。
そして、こうした戦いにおいて最も感動的な場面がくりひろげられるのも事実です。例えばテニスですが、私は自分ではまったくしない(できない)のに、そしてルールでさえ完全にはわかっていないのに、よく試合を見ることがあります。・・・・・・・・・・(略)USオープン準々決勝サンプラスVSスペイン人某との試合について・・・・・・・・ 皮肉な目で「テニスが」できるだけじゃないかとうそぶいていた私でさえ、こういう場面になると感動の嵐に襲われる。もう宇宙の100億年の歴史などどうでもよくなってくる。ただ、こにのみ全神経は集中し、サンプラスはほんとうに偉大なのだと信じてしまう。スポーツのみならず、本物の戦争・将棋・音楽コンクールなどあらゆる戦いはこうした魔力をもっております。なぜなのか、それはわれわれの最も深い「自然」だから、というほかありません。
***********************************
中島さんが、テニス観戦されること、サンプラスのプレーに感動されたこと、
ちょっと意外でしたが、でもなんとなく嬉しい気も。。
虚無的なことをよく書かれている中島さんでも、テニスUSオープンみて感動してるんだって(笑)
それにしても、宇宙の100億年の歴史などどうでもよくなる・・っていうのは
かなり強烈に感動していらっしゃるのだなぁ。
でも、そういう私も、熱中してるときには、なにも手につかずにのめり込んじゃってるから
その気持ちはわからないでもないけど。
スポーツなどの競い合いに夢中になるというのも、人の「自然」の性なのですね。
なぜこれほど惹かれるのか、不思議に感じていたのですが
少しわかったような気がしました。
ただ、”戦争”がこの中に入っているのが、なんだか悲しい。
戦争に魔力がある、人が惹きつけられる、そんな風には思いたくないのだけど
でも、人類創世のはるか昔から、これまでの長い間のことを振り返っても
紛争の絶えることがなかったことを考えてみると、
”戦争”でさえも、人の「自然」の性なのだといわざるをえないのかもしれません。
さらに、「戦うこと」について、別の視点から述べられています。
****************************************
気を紛らすこと より L138~
パスカルは「戦うこと」のもつこの魔力を、少し違った観点から「気を紛らわすこと」と呼び子細に分析しました。彼によれば、われわれが戦いを好むことは、「死ぬこと」をはじめ次々に襲う人生の不幸を「紛らすため」に不可欠のものとして人間が考案したものなのです。だから、その「楽しみ」の裏にはピッタリと「虚しさ」ないし「惨めさ」が貼りついている。
***************************************
気を紛らわすこと・・・・
自分の場合も、たしかにこれはあてはまる。
晴香を亡くした後、しばらくはどこへも出かける気がしなくて、家に籠って
本ばかり読んでいました。しばらくしてから、あまり籠っているとどんどんと
気持ちが塞がっていくように感じてきて、今度はあえて積極的に外にでていくようにしていました。
ただちょっと無理をしてたのか、しばらくの間は、帰ってくると反動でどーっと疲れる・・
という状態が続きましたが。
その後、数か月後には1年以上中断していたテニスを再開。
テニスコートの中でボールを追いかけている間は、夢中になれました。
すべてを100%忘れて・・というわけにはいきませんでしたが、
とりあえずその場で考えることはテニスのことでしたから。
そういう意味では、気が紛れていたと言えると思います。
「思考」というのは、常にやってくるものですから
マイナスの気分の時にはどんどんとマイナスの方向に思考が行ってしまいがちです。
そんなときに、一時的にでも違うことに「思考」が向けられるというのは
自分で自分を苦しいことから逃れさせているともいえるのでしょう。
テニスに夢中になってきたのは、純粋にそのものを楽しむということも
もちろんあったのですが、こうやって振り返ってみると
自分自身の現実からの逃避であったのかもしれない、
そんな風にも思えてきます。
「人生の不幸」や「死ぬこと」などといった大きなことだけでなく、
日常の些細なことがらなどでも、一時離れて、別世界にひたることができる、
スポーツの面白さは、そういうところにもあるのでしょう。
テレビをつければ、民主党が・・自民党が・・角界の野球賭博問題が・・・
いやになって、チャンネルはすぐに、ウインブルドンへ。ワールドカップへと。。
これも、現実逃避の1つなのでしょうね。
でも、ウインブルドンもワールドカップも、もう終わってしまったので
逃避するところがありません。
それで、テレビの出番はすっかり少なくなってしまいました。
本当は、政治の問題などでも、もっと真剣に考えなくてはいけなのでしょうけど。
偏向報道、煽り報道・・有権者を振り回すような報道が多すぎて
今のテレビ放送は正直、あまり見る気がおきません。もうちょっと現実にも
目を向けたくなるような報道を考えてもらえるといいのですが・・
その中の一つ。「戦い」について語られたところ。
私は10年くらい前からテニスを始め、以来その面白さに取りつかれています。
30度を超す夏の暑い日にも、木枯らしが舞う冬の日にも、お正月と8月以外、年がら年中。。
それから、テニスに限らず、子どもたちのバスケットや野球を観るのも好き。
オリンピックやWBCのような国際大会も。サッカーは普段みないけど、WCだけは別。
白熱した試合をするのはもちろん、観るのもとても面白い。
へたなドラマや映画よりも、感動させられる。
スポーツ、あるいは競い合いというのは、私に限らず人を熱中させる魔力がありますね。
普段スポーツにあまり関心のない人でも、今回のワールドカップサッカーに夢中になった人は
かなり多かったようですから、普段見る見ないに関係なく、
このことは多くの人にあてはまるのではないのかと思います。
では、どうしてスポーツや競り合いというのが、これほど人を惹きつけるのか。
中島さんの文章に、これに関わることが書かれていました。
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第3章「懐疑精神」のすすめ 「戦い」はわれわれの「自然」である より L135~
・・・つまり、人間はー文化を完全に廃棄しニシンのように生きることを決しないかぎりー他人を攻撃する衝動、他人に勝りたい衝動を消し去ることはできない。ホッブスは、この衝動をまるごと人間の本性=自然と認めました。
たしかに、世界中で催されているスポーツの祭典を見ますと、ローレンツやホッブスの言うことが正しいような気がしてくる。人間が「戦うこと」を好む生物であることは否定できない。たとえ身をもって戦わなくとも他人どうしの競争を観戦することが大好きな生物であることも否定できません。
そして、こうした戦いにおいて最も感動的な場面がくりひろげられるのも事実です。例えばテニスですが、私は自分ではまったくしない(できない)のに、そしてルールでさえ完全にはわかっていないのに、よく試合を見ることがあります。・・・・・・・・・・(略)USオープン準々決勝サンプラスVSスペイン人某との試合について・・・・・・・・ 皮肉な目で「テニスが」できるだけじゃないかとうそぶいていた私でさえ、こういう場面になると感動の嵐に襲われる。もう宇宙の100億年の歴史などどうでもよくなってくる。ただ、こにのみ全神経は集中し、サンプラスはほんとうに偉大なのだと信じてしまう。スポーツのみならず、本物の戦争・将棋・音楽コンクールなどあらゆる戦いはこうした魔力をもっております。なぜなのか、それはわれわれの最も深い「自然」だから、というほかありません。
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中島さんが、テニス観戦されること、サンプラスのプレーに感動されたこと、
ちょっと意外でしたが、でもなんとなく嬉しい気も。。
虚無的なことをよく書かれている中島さんでも、テニスUSオープンみて感動してるんだって(笑)
それにしても、宇宙の100億年の歴史などどうでもよくなる・・っていうのは
かなり強烈に感動していらっしゃるのだなぁ。
でも、そういう私も、熱中してるときには、なにも手につかずにのめり込んじゃってるから
その気持ちはわからないでもないけど。
スポーツなどの競い合いに夢中になるというのも、人の「自然」の性なのですね。
なぜこれほど惹かれるのか、不思議に感じていたのですが
少しわかったような気がしました。
ただ、”戦争”がこの中に入っているのが、なんだか悲しい。
戦争に魔力がある、人が惹きつけられる、そんな風には思いたくないのだけど
でも、人類創世のはるか昔から、これまでの長い間のことを振り返っても
紛争の絶えることがなかったことを考えてみると、
”戦争”でさえも、人の「自然」の性なのだといわざるをえないのかもしれません。
さらに、「戦うこと」について、別の視点から述べられています。
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気を紛らすこと より L138~
パスカルは「戦うこと」のもつこの魔力を、少し違った観点から「気を紛らわすこと」と呼び子細に分析しました。彼によれば、われわれが戦いを好むことは、「死ぬこと」をはじめ次々に襲う人生の不幸を「紛らすため」に不可欠のものとして人間が考案したものなのです。だから、その「楽しみ」の裏にはピッタリと「虚しさ」ないし「惨めさ」が貼りついている。
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気を紛らわすこと・・・・
自分の場合も、たしかにこれはあてはまる。
晴香を亡くした後、しばらくはどこへも出かける気がしなくて、家に籠って
本ばかり読んでいました。しばらくしてから、あまり籠っているとどんどんと
気持ちが塞がっていくように感じてきて、今度はあえて積極的に外にでていくようにしていました。
ただちょっと無理をしてたのか、しばらくの間は、帰ってくると反動でどーっと疲れる・・
という状態が続きましたが。
その後、数か月後には1年以上中断していたテニスを再開。
テニスコートの中でボールを追いかけている間は、夢中になれました。
すべてを100%忘れて・・というわけにはいきませんでしたが、
とりあえずその場で考えることはテニスのことでしたから。
そういう意味では、気が紛れていたと言えると思います。
「思考」というのは、常にやってくるものですから
マイナスの気分の時にはどんどんとマイナスの方向に思考が行ってしまいがちです。
そんなときに、一時的にでも違うことに「思考」が向けられるというのは
自分で自分を苦しいことから逃れさせているともいえるのでしょう。
テニスに夢中になってきたのは、純粋にそのものを楽しむということも
もちろんあったのですが、こうやって振り返ってみると
自分自身の現実からの逃避であったのかもしれない、
そんな風にも思えてきます。
「人生の不幸」や「死ぬこと」などといった大きなことだけでなく、
日常の些細なことがらなどでも、一時離れて、別世界にひたることができる、
スポーツの面白さは、そういうところにもあるのでしょう。
テレビをつければ、民主党が・・自民党が・・角界の野球賭博問題が・・・
いやになって、チャンネルはすぐに、ウインブルドンへ。ワールドカップへと。。
これも、現実逃避の1つなのでしょうね。
でも、ウインブルドンもワールドカップも、もう終わってしまったので
逃避するところがありません。
それで、テレビの出番はすっかり少なくなってしまいました。
本当は、政治の問題などでも、もっと真剣に考えなくてはいけなのでしょうけど。
偏向報道、煽り報道・・有権者を振り回すような報道が多すぎて
今のテレビ放送は正直、あまり見る気がおきません。もうちょっと現実にも
目を向けたくなるような報道を考えてもらえるといいのですが・・
こんにちは。
また、考える材料になる記事でした。
確かにスポーツは「気を紛らすこと」につながりますね。
私にとっては、囲碁や将棋がそれにあたります。
ただ、中島義道さんのようには、ホッブズやパスカルからの引用に納得できません。(たぶん、現代生物学を学んだからです。中島さんも現代生物学者のローレンツを引用してはいるようですが・・・?)
一言で言うと、“戦い”は、人間を含む全ての生物の本性だが、「文化」でも「人間が考案したこと」でもない、と思うのです。
ほぼ“人間ならでは”の文化や理性は、ホッブズ説とは逆に、“戦い”を無くしたり無害化する方向でこそ特徴的に働いている、と思います。
また、スポーツや囲碁などの楽しさは、大きく2つに分けられそうです。
相手を負かして勝つことと、優れた技を鑑賞したり自分自身の身体や思考を働かせること。
後者が強い場面や人物では、“戦い”という言葉が相応しくなくなり、「惨めさ」などを伴うことのない“善い”形で「気を紛らすこと」ができそうです。
テニスは全く分からないのですが、今回のサッカー大会は、色々な方面に向けた敬意があつく感じられたので、気持ちよく見られました。
by plant (2010-07-16 04:56)
plantさん、nice&コメントありがとうございます。
コメントいただいたおかげで、さらに考えを深めることができました。
図書館に本を返却してしまったため、今確認することができないのですが、最初に引用した文章の前の部分に、おそらくローレンツからの引用文があったと思われます。
ニシンについて。集団で行動しているがそれぞれお互いが何を考えているのかまったく気にすることがないけれど、これがゾウの集団になるとそうはいかなくなる。互いに対するいろいろな感情が生まれてくる。そんな中から闘争心などもでてくる。人間の場合も同じく、お互いのやり取りの中から文化が生まれ・・・・
あまりはっきりと覚えていなのですが、このようなことが書かれていたように記憶しています。
たしかにplantさんがおっしゃるように、戦い、とくに戦争というものが、人間が「考案したもの」だとか「文化」だとか思いたくないです。
悲しい性のひとつではあったとしても、人間ならではの「文化」や「理性」によって、避ける方に向かってほしいものです。
スポーツの面白さは、勝ち負けだけでなく、
勝負の駆け引きだとか、すばらしい技をみることなどにあると思います。
ひいきの選手やチームが勝てば嬉しいのですが、あまりあっさり勝負がついてしまうよりは、より白熱した試合をみるほうが感動や満足感は大きいです。
見る方や、アマチュアでプレーする場合などは、
勝ち負けだけでなくて、やりとり自体を楽しむことができます。
でも、プロとなるとそういうわけにはいかず、勝つことが必要条件になるわけですから、「気を紛らす」どころではなく、ストレスもきっと大変なものなのでしょう。趣味レベルで楽しむのが、一番気楽でいいのかもしれませんね
by はるママ (2010-07-17 14:58)