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月命日というもの [思うこと]

晴香の月命日、よく忘れてしまう。
子供さんを亡くされた方の日記などをみていると
月命日には、毎回お寺さんにきてもらってお経をあげてもらうとか
親しい人がお花をもってお参りにきてくださるとか
さらには、月命日にかかわらず、毎朝お経をあげている
とかいう人もみえる。

自分は、そんなふうに特別にお参りしたりお供えしたり
お経をあげたりするどころか
月命日そのものを忘れてしまっていることもしょっちゅうある。
忘れていないときでも、特別なにもしない。
もちろん、お水やご飯などといった日々のお供えはいつもと同じようにしているにはしているのだが。。

元来、あまり信心深いほうではないので、
お経を唱えるとか、お線香をあげるとか、お供えをするとか
そういうことに、もともと積極的なほうではないのかもしれない。
だから、月命日といっても特別なにかをという気にならないし
やらなかったからといって、忘れたからといって自分自身罪悪感をもつことはないと思っている。
もともと、月命日なんていうのはたまたま亡くなった日にちと同じ日だということだけなのだから
それに、あえて意味づけをする必要もないんじゃないの
ともおもえるし。
それでも、命日はやっぱり特別だけどね。

そんな風におもってはいるのだけど
だけど、心のどこかで、ちょっぴり罪悪感のようなものも
感じてるみたいなので、それがどうしてなのか自分でもよくわからない。
すっかりわりきってしまってるのなら、気にする必要もないのに
どこかで、忘れたりしてる自分を責めてたりもして。
ほんと、よくわからない自分。。

月命日を忘れたからと言って
晴香のことを忘れてるわけじゃないんだけど。
忘れられるわけがない。
晴香のことを想わない日はないし
仏壇よりも、こうやってパソコンに向かいながら
あれこれ、考えたり思い出したり。。
何年か前から、こうやって過ごすことがあたりまえになってしまってる。

5年が過ぎて、思い出すことが少なくなるかといえば、まったくそんなことはない。
それどころか、このごろではますますいろんなときの晴香が突然思い出されて、思い出すと同時に目頭が熱くなってきたりもする。
こういう感覚は何年たってもちっともかわらない。
思い出す場面は、小さいころから病気になってからのときまで
さまざまだけど、
でも、なんどもなんども脳裏によみがえってくる場面と言うのは
いつもきまってたりする。

夏の花火大会での晴香の笑顔
ハムスターを落としてしまって、意識をなくしたハムスターを前に、号泣する晴香
学校帰り、遠くから手を振って駆け寄ってくる晴香
病気になって、勉強がおもうようにできなくなり、泣きながら漢字をおぼえている晴香
一時退院したとき「家はいいなぁ」と言ったときの晴香・・・・

何度フラッシュのようにその場面、そのときの表情が蘇ってきたことか。
想いはかわっていない・・とおもう。
でも、月命日を忘れてしまう自分はやはり薄情な母親なのか。
割り切っているつもりでも、どこかでひっかかっている自分がいる。

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