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7年目 [思うこと]

きのう10月2日は、晴香の7回目の命日でした。
あれから7年。
もう7年?・・まだ7年?
晴香のいない春や夏、秋に冬をいくつもすごしてきて
本人のいない誕生日を何回も迎えてきて・・
お盆やお正月、さまざまな行事、たくさんたくさんいろんなことがあって
だから、自分の中に、まだ7年なのかという感じはもちろんあるんだと思います。
一方で、晴香のことを思い出すときには、(意識して思いだすというより、何かの拍子に不意に思い出が向こうからやってくるという感じ)そのときの映像だけでなく、そのときの思いや感情までもがそっくりそのままに蘇ってきたりします。
だから、時間が経っているのだけど、経ってないような、
そんな感じで、どうもフツーの時間的な感覚というものがなくなってしまうようなのです。
死者と生者の関係って、地上の時間とはちがうところで繋がってるんでしょうね、きっと。

昨年のこの日は雨だったけれど、今年は晴天
雲ひとつない青空とはいえなかったけれど、朝から明るい陽ざしに、
日中はちょっと暑いくらいのよいお天気でした。
やはり雨や曇りよりも、晴天のほうが晴香のイメージに合います。

以前は命日が近づいてくる何日も前から
もうすぐだなぁっと思いながら、なんとなく落ち着かないような気分だったのですが
今回は、自分でも不思議なくらい穏やかにすごし、
夕方には、東レパンパシフィックオープンテニス決勝戦を、普段通りな感じで見たり。
穏やかにフツーにすごせるようになったことは、いいことなのだろうけれど、
それはそれで、なんとなく後ろめたいような気もしたり、複雑ではありますが。
でも、もうあと何年か後には、そういう気持ちも起きなくなるのかもしれません。

最初のころは、1年、2年、3年・・・過ぎるにつれ、
だんだんと、一緒に過ごした日々が遠ざかっていくような、晴香と離れていくような
淋しい気持ちになっていました。
もちろん、今でもそういう淋しさはあるのですが。
ただ、このごろはむしろ、だんだんと離れていくというより、
少しずつ晴香のところに近づいているような感じもしています。
平均寿命からいったら、まだまだこんな感覚を抱くのはおかしいのかもしれないけれど。
いつどうなるかわからないということを考えれば、自分も晴香に近いところにいるんだ
という気持ちになってきます。
世の中の、生きている間がすべて、死んだらおしまい、だから生きるためには手段も選ばず・・
的な雰囲気になんとなく違和感を覚えるこのごろ。
今生きているものも、たまたま奇跡的に生きているのであって
いつかかならず同じところへ行くのだということを考えれば、
死んでいったものとそれほど違いのないものであると言えるのかもしれません。
みんな死ぬ、いつか必ず。もちろん私も。
それまで、束の間、この世でのあれこれをもう少し楽しんでみるのもいいかな。
晴ちゃん、もうちょっとだね、また逢えるまで。

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コメント 7

E

そうですか、昨日が晴香さんの・・・。

僕がコメントできることなどありませんが、先に紹介した「花月のコスモロジー」にこんな文章がありました。

『ほとんどの人は、人生とは誕生に始まって死で終わる間のことと考えている。果たしてそういうものであるかどうか保証はないのだが、そう損じているわけである。しかし、そういう直線のかたちで考えられた人生は、断片であって生きたものではない。どんなに生といって力んでみても、実は生ではないのである。生は限定の外にあふれ出る。つまり、生は生であるかぎり、直線ではなく円環の形をとらざるを得ないのである。』

大きな「いのち」を想います。
by E (2010-10-03 23:19) 

E・G

損じて→信じての間違いです。
by E・G (2010-10-03 23:22) 

あきおパパ

はるママさん、こんばんは。
昨日が晴香さんの命日だったのですね。お参りに行かれたのかな。

だんだん強烈な辛さが襲ってこなくなっているのは、
それは晴香さんを忘れているのではなく、
はるママさんの心の中に、晴香さんの落ち着いた居場所ができてきたからなのかなあと思います。

先日「天国の五人」という本を読んでいるというお話をしました。これは「モリー先生との火曜日」の著者のミッチ・アルボムが2003年に書いた本です。
人が亡くなると、天国に行く途中で、自分の人生に影響を与えた五人の人に会い、その人の人生の意義を教えてくれるというお話です。

事故で亡くなった主人公は、先に亡くなった奥さんから、「(私が亡くなった後の強烈なつらさが弱まったとき)、今度は私の思い出がパートナーになるの。思い出と踊り、過ごすのよ。」ということを言われます。
そのとおり。愛する人は、亡くなった後も、心の中でずっと生き続けてくれるのだなぁと思いました。

「天国の五人」、心に残る本です。岐阜の図書館にも置いてあるので、もし読まれていなかったら、一度ごらんくださいませ。
はるママさんが天国に行く時は、きっと晴香さんが導いてくれるでしょう。
ではまた~♪
by あきおパパ (2010-10-03 23:26) 

はるママ

☆E・Gさん
大峯さんは、浄土真宗の学者であり俳人でもあり、また哲学にも通じている方で、おっしゃることが奥深いですね。

浄土真宗だけにとどまらず、いろいろな側面から物事を眺め語ってくださるので魅力を感じます。

>生は直線ではなく円環の形をとり・・
「いのち」は生と死と対極にあるものでなく、繋がっているということなのでしょうか。
この言葉から、おおきな「いのち」というか、なにか温かさのようなものも感じます。

アマゾンで見たら、大峯先生は「親鸞のコスモロジー」という本も書かれているようですね^^
by はるママ (2010-10-05 11:19) 

はるママ

☆あきおパパさん
私も図書館通い、続いています。
以前は県立図書館によく行っていたのですが、
最近、市立図書館本館に何度か足を運んでいます。
建物は私が子どものころからすでにボロボロなのですが
狭くて古い室内に、蔵書が予想外にたくさんあることを発見して喜んでいます。このあいだの「父は・・」もこちらで借りて読みました。

「天国の5人」は、岐阜の図書館にもあるとのことなので、
今読みかけの本を読み終えたら、また借りてこようと思います。
ミッチ・アルボムの「モリー先生の火曜日」も有名な本なのですね。
こちらもまだ読んだことがないですが、また見かけたら手にとって見ようと思います^^
by はるママ (2010-10-05 11:21) 

剣馬

はるママさん、先日はメッセージありがとう。

そして… 晴香ちゃん、7回目の命日だったんですね。
命日かぁ…
そうですね、月日が経つほどに苦しさや刺すような痛みはなくなりますよね。
僕もそうですよ。
上手く言えないけど…
次第に辛さを忘れていく事、それはきっと人間が生きていく上での自助機能なんだと思うようになりました。
辛いことを全部覚えていたら辛くて辛くて生きていけませんからね。
だから、別に薄情なわけでもなんでもないってね。

うん、僕らは子供達の分も頑張って生きていかなくちゃね!
by 剣馬 (2010-10-16 01:25) 

はるママ

☆剣馬さん
>次第に辛さを忘れていく事、それはきっと人間が生きていく上での自助機能なんだと思うようになりました。

そうですよね。
何年たっても、直後のような悲しみの中にずっと居続けたら、辛すぎるし日常の生活だって困難になってしまいますものね。
最初は、悲しい思いや辛い思いに浸りきらないように、必死の思いで気持ちを奮い立たせていたのが、いつのまにか、気がついたらそんなに必死にならなくても、自然体で過ごせるようになってきて・・・
人には、たとえどんな状況になっても生きていけるように、たくましい力が備わっているのかもしれませんね。
それでも、そこに至るには、あれやこれや悩んだり葛藤したりっていうのがあるんですけどね。
それもまた、人ならでは、ということなのかもしれません。

後ろめたいとか薄情とかいう気持ちも、年月とともに次第に強く感じることはなくなっているようです。さらに月日を重ねたら、きっとそういう感情も抱かなくなるんでしょうね。
自分より先を歩んでいる方の姿や言葉から、未来の自分の姿を想像させられます。ありがとうございました。
by はるママ (2010-10-16 15:17) 

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