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「15歳の志願兵」 [テレビ番組(ドキュメンタリーなど)]

毎年この時期になると、テレビや新聞でしきりに取り上げられるためなのか
戦争当時のことがあれこれ偲ばれ、なんとなく心がざわつきます。
戦後65年、終戦当時15歳だった方も、今年ちょうど節目の80歳。
このところ毎日、地元新聞には、当時15歳だった方のお話が、記事として載せられています。
終戦記念日の15日夜には、NHKで『15歳の志願兵』というドラマも、放送されるようです。

15歳の志願兵。
それは、まさしく65年前の父の姿でもあります。
昨日ちょうど、お盆のお参りに父が来てくれたので
今まで聞いてはいたものの、断片的でいま一つ繋がらなかった父の軍隊体験について
もう少し詳しく尋ねてみました。
日ごろ口数の少ない父なのですが、矢継ぎ早に尋ねる私の勢いに影響されたのか、
いつもになく熱弁を振るって、いろいろなことを話してくれました。
その中には、今まで聞いたことがなかった話もあり、また思い違いをしていたことがあることもわかり、
改めて聞いてよかったと思いました。

父が15歳で軍隊に入ったのは、個人的に志願してのことだとずっと思いこんでいたのですが、
志願したのは、実は、当時通っていた青年学校全員だったとのこと。
これは、おそらく今度のNHKドラマでの設定と同じだと思うのですが。。
戦争も末期になってくると、兵士不足で、なりふり構わず中学に対しても強制的に
志願兵を出すようにと、通達がされていたようです。
父の学校でも、全員が試験を受けることになり、それに受かった10名が志願兵として
海軍に行ったのだそうです。
父はその中でも最年少の15歳。その学校からは、ただ一人の15歳だったようです。
父の部隊では、15歳が最年少だったとのことですが、
他に、海軍特別年少兵として14歳の少年の部隊もあったそうです。(特別年少兵の記事がこちらに→14歳で兵士になった -少年兵たちの足跡 この中の『少年兵は日本の断末魔だったのでしょう。』という言葉が印象的)

昭和20年の2月からの3ヶ月間、10人は広島県大竹の新兵学校で訓練を受け、
その後、8人は海軍の陸戦隊へ配属。父を含む2人は、横須賀(田浦)にある魚雷学校へ
配属。
そこで、さらに3ヶ月間魚雷の勉強をし、その後、山口県平生へ移動になったそうです。
父が横須賀から平生に移動したのは、終戦間際のこと。途中広島駅に停車したそうですが、
その日は原爆投下からまだ間もないとき。駅から見た広島は、一面の焼け野原。
わずかにお倉の様な建物が、ぽつぽつと残るのみで、ほとんどなんにも残ってなく・・
ここに詳しく書くのも躊躇われるような、それは悲惨な状況だったそうです。

私は父が、原爆投下数日後の広島を見ていたということ、何十年もの間、知りませんでした。
この話を聞いたのは、まだわずか1年か2年ほど前のこと。
私がいろいろ尋ねていた中で、父がぽつりと話してくれたのでした。
広島のことも軍隊で受けた厳しい罰則のことも、父はあまり詳しく私たち子どもに話そうとはしませんでした。
ときに話してくれたことは、どちらかというと、体験談でもちょっと面白おかしくしたような話。
悲惨な話は聞きたくないだろうと思って、話さなかったのだという。

高度成長期真っただ中に育ってきた私たち子ども世代には、
話しても理解できないだろう、暗い話は聞きたくないだろう、
父がそう思ったとしても無理はないだろうなぁ、なんとなくわかる気がしました。

最後に父が配属になった、平生は、人間魚雷「回天」の基地でした。
初めて「回天」を見たときには、その大きさと真っ黒で窓一つない姿に驚いたそうです。
横須賀の魚雷学校で見ていたものよりも、比較にならないくらい大きかったらしい。
整備を担当といっても、搭乗員と整備員が乗り込んで行くこともあったらしく、いつなにがあってもおかしくなかったのかもしれません。
父は、どんな気持ちだったのだろうか。
配属先が、自分で選べたわけではもちろんない。
知らないうちに、気がついたら平生にいて、回天部隊にいた。(菊水模様があったというから菊水部隊だったのか。。)
当時、「一度家に帰れたら、そしたら死んでもいい・・」そう思っていたと父は言う。


父のこの言葉は、回天元搭乗員インタビューの次の言葉に重なります。

『・・・・そもそも回天の搭乗員になって、訓練を始めたときには、とにかくビックリしますね。
それからだんだんと、自分は死ななければならないと、思うようになる。
平生や光の基地に桜の木がありましたが、この桜が咲く時期には、自分は生きているのかなと・・・死を覚悟するわけです。
それでも人間ですから。夜中になると、一人で色々と考えてしまう。
もう一回、母親に会いたい、もう一度、この姿を家族に見せてやりたいなあ。と思う。決して誰も口には出しませんが・・・。
でも、そんな不安のようなものを、一生懸命訓練したり、話し合いをしたり、酒を飲んだりして、紛らわせていたと思います。 ・・・・』

もう一度家に帰れたら、死んでもいい・・・

自分自身もそう思いながら、平生の地で実際に出撃される方4人を見送った父。
見送る側も、何とも言えない複雑な気持ちになったという。
15歳で、このようなことを考える当時の状況は、どんなだっただろう。
二度と帰れぬ魚雷にのって出撃された方たちの気持ちはどんなだっただろう。
今の時代の私たちには、想像さえも難しい。
難しいけれど、あれやこれや思い浮かべては、ただただ胸が痛み涙がこぼれます。

自分の父が体験してきたことでさえ、十分に知らなかったくらいだから、
今の人たちが、どれだけ戦争の真実を知っているのだろう。
体験された方たちが、亡くなられたり高齢になっていかれている今、
もっと聴いておかなければ・・・という思いにかられています。

父が過ごした平生や広島、いつか父と共に訪ねてみたい、そんなことも思っています。


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コメント 3

あきおパパ

はるママさん、こんにちは~。
お父様は、まだ中学生くらいの年齢で志願されたのですね。
正義感の高ぶる年ごろですから、周りの雰囲気がそうであれば、
自分も役に立たねばならぬと、心を奮い立たせたに違いありません。
家族と離れたくない、その思いを押しつぶして、出征されたのでしょう。
しかも配属先が特攻部隊とは、恐ろしかったことと思います。

いま「父は、特攻を命じた兵士だった 人間爆弾「桜花」とともに」という本を読んでいます。ちょうど半分ほど読みました。

特攻部隊の部隊長だった著者の父は、出撃者を選ぶ役をになっていて、戦後「俺は鉛筆一本で命を奪ったんだ」と語り、悔やんでいたそうです。遺族にもお詫び行脚をし、毎年の追悼会でも、その経験を涙ながらに訴えていたそうです。
特攻兵器については、実は軍部でも「前代未聞の非人道的兵器。上部からの命令で実施できない」との認識があり、かなりの反対もあったそうです。「では現場の意見をきこう」ということになり、この父にも打診がありましたが、そのときに志願してしまったのです。その判断がひとつの契機になり、「桜花」の開発は決まったのかもしれません。「回天」「震洋」などの特攻兵器も、同じ事情かもしれません。
そう思うと、とても辛い話です。でももし図書館で見かけたら、読んでみてくださいね。

今日の東京はとても暑いです。きっとそちらも同じですね。
夕方になって、涼しくなるといいですね!
ではまた~♪
by あきおパパ (2010-08-22 14:09) 

はるママ

あきおパパさん、こんにちは。コメントありがとうございました。
特攻部隊には、「回天」などのほかにも、一般的にはあまり知られていない部隊がいろいろあったようですね。
人間爆弾「桜花」のこともつい最近まで知りませんでした。
本当に、前代未聞の非人道的兵器。
このようなものを作り出して、実際に使用してしまった当時は、
平和な時代に暮らす私たちには想像もできないような異常な状況、
人でさえも、ひとつの弾丸とみなしてしまうような恐ろしい状況だったのでしょう。
父の、「自分たちの命など何とも思われていなかった。人の命よりも戦闘機や潜水艦などのもののほうがずっと大切にされているような時代だった。。」という言葉がとても印象に残っています。

突撃を命ぜられた方だけでなく、命じた方も戦争の犠牲者だったのかもしれません。
父の部隊の隊長は、戦後、部下だけを死なせられないと
自分自身も自決をされたそうです。
生き残られた方も、戦後長い長い年月を、後悔と罪の意識で苦しんで過ごして見えたのですね。

私も、今度図書館に行ったら、この本読んでみようと思います。
紹介してくださって、ありがとうございました。

ps.お盆を過ぎても、相変わらず毎日暑いですね。
岐阜は猛暑ですっかり有名になってしまいましたが。。
今年に限っては、東京もかなり暑くなってるようですね。
そろそろ夏の疲れもでるころですので、どうぞ気をつけてお過ごしください!
by はるママ (2010-08-24 11:22) 

はるママ

あきおパパさん、こんにちは~!
きのうと今日と、こちらでは突然の豪雨に雷と、嵐のような日になってますが
東京はどんなお天気ですか?
この雨で一気に涼しくなったので、これでようやく本格的な秋がやってくるのかもしれません。

ところで、ご紹介いただいた「父は、特攻を命じた兵士だった 人間爆弾「桜花」とともに」、少しまえに図書館で借りてきて、先日読み終えました。
これまでにも、「きけわだつみの声」など、特攻兵器で出撃されていった方の手記などを読んだことはあったのですが、
出撃を命じる側の思いと言うのは、知る機会がありませんでした。
イメージとして、そういう立場にある人というのは、もっと年配の方なのかと思っていたのですが、この部隊長だった林氏が、わずか23歳だったということには、大変驚かされました。
同じような年齢の人たちの中から、出撃する人を選びださなければいけない。選ぶということは、それは二度と帰ることができないということを意味するわけで。そこには計り知れない葛藤やら苦悩やらがあったことでしょう。
自分が先に逝く方が楽だったのかもしれない、先んじて出撃を希望する人たちの心情としても、同じような思いがあったのかもしれません。
1年365日のすべてが慰霊の日と心に刻み込んで過ごされた日々・・・平和な世の中になっても、林氏は、戦後65年間、ずっと戦争をかかえて生きてこられたのですね。
林氏の思い、出撃された兵士の思い、いろいろなことを想像しながら読んでいたら、思わず何度も涙がこぼれました。
悲しいけど、現代の私たちもぜひとも読まなければいけない本だと思います。
よい本を紹介してくださって、ありがとうございました。
by はるママ (2010-09-23 16:01) 

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