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「おくりびと」 [映画]

8月に入ってすぐ、wowowで放送された「おくりびと」を観ました。
アカデミー賞外国語映画賞を受賞した、あの話題の映画です。
「おくりびと」を観て、そのあと「納棺夫日記」を読んで、日記にも書いておきたいとおもっていたのに
なかなか書けないでいるうちに、1か月以上も過ぎてしまいました。

実は、この映画がまだ封切られる前、テレビに出演していた本木くんの語ったことが
とても印象に残り、それ以来ずっと気になっていました。
それは、彼がインドを旅した時に見た、ガンジス河を流れて行く遺体にまつわるエピソード。
多くの人が沐浴をしている脇を、遺体が流れて行く・・これはどういうことだと、ものすごい衝撃を
受けたとのこと。
それ以来、人の死とはなんなのかということが、頭を離れなくなった。。
そして出会った本が、「納棺夫日記」
この本を何度も何度も読み、ぜひこれを映画にしたいと思うようになったという。
そう思い始めてから、かなりの年数が経ったというのだが
内容的にも映画化するには難しそうなものであることから、果たして実現ができるのかどうか
わからない現実のなかで、ずっと長い間思い続けてきた本木くんの熱意は、ほんとにすごいものに
思われました。
それに、まだ若く、アイドルとして持て囃されるような立場にある彼が
どうしてこのような重いテーマの作品を映画化したいと思うようになったのか。
それも、長い年月をかけて一途に思い続け、幾多の困難を乗り越えついに実現させてしまった。。
その情熱はどこからきたのだろうか。
それほどまでに、若い彼を引き付けたものはなんだったのだろうか。

と、そんな疑問が湧いてきて、この映画についてもずっと気になっていたわけです。
それなのに・・・
映画が封切られてからも、アカデミー賞を受賞してからも
何故だか映画館に足を運ぶことなく、1年近くが過ぎてしまっていました。
気になりつつ、なんで観に行かなかったのだろうか。。
もしかしたら、映画館という場所ではなく、ひとりひっそりと観てみたいという思いが
どこかにあったのかもしれません。
あと、これまでにも映画化やドラマ化されたときに、原作との違いを感じて
がっかりしたことがあったので、そういう躊躇いもどこかにあったのかもしれません。

ともあれ、1年近くたって、やっと観ることができたわけです。
長年思い続けてきただけあって、本木くんの演技には思いがたくさんこめられているように見えたし
実際、大変な熱演だったと思います。
他にも、脇を固める役者さんたち、とくに山崎努さんや笹野高史さん、余貴美子さんなどの
演技も個性が光っていて、映画をさらに深みのあるものにしていたと思います。

雄大な山形の自然を舞台に、本木くん演じる大悟が弾くチェロの調べも映画の魅力を
引き立たせていました。
日ごろ目を背けがちな「死」というものが、誰にでも訪れる身近なものであるということ
それに携わる人たちに対して、人々がいかに偏見をもっているのかということ
送る人、送られる人、そこにはあたたかな絆があるということ
多くの人がこのような感想をもたれたようですが、私もまた同じようなことを感じさせられました。

それとともに、山崎努演じる社長がフグの白子を食べながら呟いた、
「旨いんだよなぁ、これが!困ったことに・・・」
この言葉が、この場面が、どうしてだか、とても印象に残っているのです。
他にも、本木くんの、渾身の演技である納棺の儀式とか
笹野さんの、火葬場で「行ってらっしゃい。」「また会おう。。」とお別れする場面とか
心に残る場面はたくさんあるのに、なぜ白子を食べる場面が目に焼き付いて
山崎努のこの言葉が、耳に残って仕方がなかったのか。

「白子も死体だ」と言いながら美味しそうに食べる社長。
死を忌み嫌うものとしながらも、他の命をいただいて生きている私たち。
この場面からは、「生」というものが「死」を内在するものであって
「死」とまるで関係のないところにあるものではないということ。
なにかそのようなことを、象徴しているように思われてくるのでした。
「死」を描くことでよりいっそう「生」というものがくっきりと
浮かび上がってくるような、そんな風にも感じられました。

最後にもう一つ心に残った場面
※社長が、亡くなった奥さんをしっかりと見送ってあげられなかったことを悔やんで
大悟にぼそっと、呟くところ。
愛する人の最期のときには、綺麗にして見送ってあげたい
ほとんどの人は、そう願うのだろうけれど、この作品の中の社長も
そしてあとから読んでわかったのだけど、原作である「納棺夫日記」著者の
青木さん自身も、つらい死別体験を持ってみえ、ちゃんとお別れをすることが
できなかったという後悔の気持ちが、心の中にあるようでした。
だからこそ、このような納棺夫という仕事に対して、意味を見出してみえたのでは
ないのだろうか。
納棺夫、なかなかできる仕事ではないと思う。
自分自身ができなかったこと。後悔の念・・・そういうものが、この仕事を続けていく
原動力になったのではないだろうか。
そんな風にも思えてきたのでした。

晴香の最期のときは、病院にいたということもあって
看護師さんたちが、身体を清め、髪を洗い乾かして、とてもとても綺麗にしてくださいました。
高熱に苦しめられていた時とうってかわって、顔の表情はとても穏やかで
梳かしてもらった髪は、少し茶色がかってサラサラとして綺麗だった。。
色白の顔に、とじた瞼には重たいほどの長い睫毛が。
あのときの、穏やかで美しい晴香の表情は、今でもときどき脳裏に浮かんできます。
死者を綺麗にして送りだすというのは、きっと残された者たちのためにすることなのでしょう。

それにしても悔やまれるのは、あのときのサラサラの髪を、
なぜ少しでも残しておかなかったのかということ。
気が動転していて、そのようなことに気がまわらず、あとになって後悔。
今となっては、もう遅いですね。心の中にイメージとして思い浮かべていくしか仕方がないですね。

この映画をみてから、次に「おくりびと」の原作となった「納棺夫日記」を読んでみたくなりました。
こちらの感想は、次回に。

・・・今さっき知ったのですが、明日の夜、地上波で「おくりびと」放送されるようですね。

※さきほど放映された映画を、もう一度観ていたのですが、この部分勘違いでしたね。
社長の奥さんは、送られる人第1号だったとのこと。
この映画を観たあとで読んだ「納棺夫日記」の著者青木氏の
辛い死別体験と、社長の体験とが、重なって
自分の中のイメージが磨り変わってしまっていたようです。
青木さんも書いているけど、納棺夫を仕事とするようになったのは
何かに導かれた一定の流れだった。。と
そのようなことからも、弟妹をちゃんと見送れなかった経験は
「納棺夫日記」の中でも見逃せない部分だと思うのですが。。
この本が原作になっているにしては、どうしてこの部分
かえてしまったのかな。
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コメント 4

あきおパパ

はるママさん、こんにちは♪

以前、「おくりびと」についてコメントしたことがありましたが、
はるママさんにとっては、やはり晴香さんの時の想いが重なるのですね。
亡くなった方を綺麗な姿にしてくれることにより、残された人たちの心の痛みが
すこしでも和らぐのであれば、とても大切な、人の役に立つ仕事だと思います。
晴香さんも、綺麗で穏やかな表情にしてもらえてよかったですね。

「おくりびと」、明日放映されるとのこと、しっかり見てみます。

ではまた♪

by あきおパパ (2009-09-20 18:18) 

はるママ

「おくりびと」と「納棺夫日記」の感想を、あきおパパさんから、
かなり前にいただいていたのに、私の方はなかなか書けず・・・
やっと今日書くことができました。

映画を観ていると、どうしても自分の経験と重なって見えてしまう部分があります。
晴香の場合は、納棺夫ではなく病院でお世話になったのですが
その時にしていただいたことは、とても嬉しかったですし
最期に穏やかで綺麗な姿を見ることができ、何年か過ぎた今でも
あのときの様子を思い浮かべることができるのは
私にとっても救いになっています。
あの時お世話になった方々には、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

明日の夜は、ぜひ映画、ご覧になってみてくださいね。
by はるママ (2009-09-21 00:47) 

あきおパパ

はるママさん、こんばんは♪

じっくりと「おくりびと」を見ました。
本で読んだイメージとぴったりで、とても美しい情景でした。
背景の鳥海山も、青い空とマッチして、私の実家の山々のようです。

忌み嫌われる仕事でも、心をこめて行えば感動を与えられるということ、
新たな旅立ちを手伝うという仕事は、決して忌むべきものではないこと、
葬儀というものは、残された者の想いを最優先すべきものであること、
など、本を読んだ時に感じたことを、改めて感じることができました。
でも、今回映画をみて、一番私の心に響いたのは、
事務員の上村さんが、主人公の父親と同じ過去をもっていたこと、
取り返しのつかない悲しい重荷を背負っていたということでした。

重い軽いはあるものの、皆、そんな重荷を背負っているのだと思います。
それがとても重い場合、亡くなるまでに解消するのは難しいでしょう。
だからこそ亡くなった時には、解消してあげなければと思いました。
どんな人生を送った人も、天国へ行く時は綺麗に旅立たせてあげたい。
やや違った視点かもしれませんが、私にはそう納得できました。

「納棺夫日記」に書かれていた弟妹のことですが、
著者の青木さんは、2か所に書いているだけで、詳しくは書いていません。
ここからは私の想像でしかありませんが、
青木さんにとって、弟妹のことは、辛くて書けなかったのではと思います。
単に、悲しさや恋しさや辛さの思いだけなら書けたかもしれません。
でも、悔やみきれない後悔の念が伴っていたとしたら、どうでしょう。
それは、弟に一口の食べ物を分けてあげなかったことかもしれません、
それは、妹を足手まといだと、ちょっと思ったことかも知れません。
もし、そんな思いがあると、書こうとしても書けないのではと思います。

単に悲しいというだけでなく、自責の念が加わると、
その辛さを解消するのは、なかなか出来ないと思います。
書こうとしても書けないという背景には、そんなことがあるように思います。
柳田さんの「犠牲への手紙」でのコメントや、
「ソラリス」で描かれた苦しみも、きっと同じなのではと思います。

重いことばかり書いてすみません。
でも、とにかく、とても考えさせられる映画でした。

ではまた♪

by あきおパパ (2009-09-22 18:42) 

はるママ

あきおパパさん、映画の感想ありがとうございました。
映画はやはり本と同じイメージで描かれていたのですね。
それぞれの登場人物も、本のなかのイメージと同じだったでしょうか。
山や川、ゆったりと舞う鳥たち、チェロの調べ・・・
雄大な自然風景とともに、映画の中には印象に残る場面がたくさんありましたね。

>青木さんにとって、弟妹のことは、辛くて書けなかったのではと思います。
単に、悲しさや恋しさや辛さの思いだけなら書けたかもしれません。
でも、悔やみきれない後悔の念が伴っていたとしたら、どうでしょう。

青木さんは、幼い弟妹との死別体験については、あまり詳しく書かれていません。
それでも、なぜか私の中では、この部分がとても心に残っています。
「納棺夫日記」最後の解説の中で、高史明氏が次のように書かれています。

『・・・・それにしても、8歳にして妹と弟の遺体を自ら担い、
荼毘に付さなければならないとは、なんという体験であろう。・・・
青木さんは、本書において詩人の”魂”を深く見届けているが、
そこには真っ直ぐ見つめることもできず、かといって逃れることもできなかった
青木さんの原体験との格闘が、鋭く抉り出されているのである。・・・』

人は、あまりにも過酷で辛すぎる体験をしてしまうと
まさに”真っすぐ見つめることもできず、かといって逃れることもできない”状態となっていまい
そこに自責の念が加わるとしたら、さらにその苦悩は深いものとなってしまうのでしょう。
忘れることもできず、語ることもできないその体験は
脳裏の奥深くしまいこまれ、普段は何気なく振舞っていても
あるときに何かの拍子にふっと思い出されたり
あるいは、自分では意識しないうちに、進むべき方向に導かれたり
していくのかもしれません。
私には、青木さんが納棺夫となられたことには、この原体験があったからこそ、なのではと思えて仕方がありません。
少なくとも、ただたんたんと職業としてわりきってこの仕事をされているだけでなく
人を見送る意味のあることとして、心をこめてお仕事をされている
またそこから自分自身も救いを見出してみえる・・・そのような
心境にまで至られたのは、やはりこの体験があったからこそなのではと
思えます。

語るに語れない、それでも忘れることも逃れることもできない自責の念を伴うおもい、
「ソラリス」でも、「犠牲への手紙」でのコメントでも共通したものあがあるということ、私もやはり同様のことを感じました。

なんだか、納棺夫日記のことばかりになってしまったみたいです。
次回書こうとおもっていましたが、書きたいことの半分以上こちらに書いてしまったかも。

また、書きたいことがまとまったら、「納棺夫日記」のこと
改めて取り上げてみます。
by はるママ (2009-09-23 14:29) 

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