「『犠牲』への手紙」 [柳田邦男]
柳田邦男氏の著書「犠牲 わが息子・脳死の11日」が出版された後
全国各地の読者より、続々と手紙が寄せられたという。
それらの多くが、心を病む人々や、家族のだれかを喪った人々からのものであり
その手紙の中には、自らの苦難の人生が、『犠牲』に重ね合わせて、連綿と綴られていたのだという。
この思わぬ反響により、柳田氏はその続編といえる、「『犠牲』への手紙」を書くことを
決意されたのであるが、そのことについて、柳田氏は「はじめに」の中で次のように書いています。
「『犠牲』によって完結させようと思った洋二郎の「生と死」の物語が、
多くの読者によって「共有する終わらない過去」として社会的存在となり
その輪の中に私も引きずりこまれることになったのだ。
洋二郎の「生と死」や私自身の心の旅について、もう少し語り続けなければならなくなったのである。」
第1部の中で柳田氏は、多くの読者からの手紙を紹介しながら、次のように疑問をなげかけています。
「では、そういう読者はなぜ見ず知らずの作家に手紙を書くのだろうか。・・・・・
闘病記や追悼記を書くのは、どんな意味があるのか。」
そしてそれらの答えとして、次のように書いています。
「残された者が不当惑やうらみや罪意識や孤独感を、自分なりに整理して乗り越え
事実をありのままに受け容れられるようになるには、その人なりのグリーフワークが必要になるのだが
そのときに自分をさらけ出して他者に語るとか、追悼記を書くという作業は、非常に有効な
グリーフワークになる場合が多い。なぜなら、他者に向かって語るとか書くという行為は
自分の内面にある渾沌とした喪失対象の人間像や人生の足跡や自分との関係性を整理して、
”物語”として組み立てる作業にほかならないからだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
実際、私自身、息子の死後の渾沌のなかから、『犠牲』を書いたことによる心理的な変化を
振り返ってみると、書くという行為が、自分の再出発にとって決定的なステップになったと感じる。・・・」
”書くことによって癒される”
”書くことによって渾沌とした自分の内面にあるものを整理していく”
このことは、まさに私自身の体験でもあります。
一周忌を前にして、お参りにきていただいた人にお渡しできればと考え
晴香の写真などを載せた印刷物を作ろう、と思い立ちました。
最初は、カードかあるいは、ほんの2~3ページくらいの簡単なものを作るつもりだったのですが
始めてみると、あれもこれも載せたい。あのこともこのことも書いておきたい。。
と、次々にページは増えていき、最終的には15ページにもなってしまいました。
パソコンに向かっている間、時間を忘れるくらい夢中になっていました。
もともと文章を書くことは苦手だったし、あまり好きな方ではなかったのだけど
このときばかりは、書きたい、書かなきゃ・・・と何かに駆り立てられるような思いで
キーボードを叩いていたような気がします。
三回忌を前にした時も、晴香のHPを作ろうと思い立ち、
これまた始めてみたら、あれもこれもと次々とページが増え
つぎつぎと思いが言葉になって溢れてきました。
こんな経験は今までなかったことです。
自分の中に仕舞い込まれていた思いが、書くということを通して
一気に外に溢れ出てきたのでしょう。
最初は、晴香の思い出を記録するため、という気持ちもあったのですが
書いているうちに、ほとんどそれは自分自身のための作業になっていました。
柳田氏の言われる、書くことによる再生・・・最初、それを意識してHPやブログを始めたわけでは
なかったのだけど、これまで自分のやってきたそれらのことは
自分自身のためにも間違ってなかったのだと
どん底から這い上がるためにも、意味のあることだったのだと、
今改めてそう認識させられています。
もう一つ、柳田氏が書いてみえる中で重要な点。
それは、「犠牲」の中で、どうしても書けなかったことがまだあるということ。
この本が、父と子だけの物語としてしか書けなくて、
長く心を病んでいる母と子との関係などについては書かれていないのだという。
どうしても書けないことがある。
私もやはり、柳田氏と同じく、書けないことがある。
きっと一生心の中にしまいこんでおくのだろう。
もしかしたら誰にでも、そういう語れない部分というものはあるのかもしれない。
この本の中には、他にも共感するところがたくさんありました。
読者から寄せられた手紙の一節より
<あれから、大事だと思っていたものが重要ではなくなり、ほんのわずかななにかが
とても大切になってきた。そして身のまわりの多くのものが不要になった>
「あとがき」より
「連れ合いや我が子を喪った読者からの手紙には、悲しみは何年たっても消えるものではありません
という心情がしばしば綴られている。
私自身、洋二郎の幼き日の姿や心を病んで精神科に通っていた頃の姿が突然目の前に現れて
目まいがするほど打ちのめされることが、いまだに時折ある。悲しみは心の深いところに根をはって
いるように感じる。それでも日常は虚飾でも虚勢でもなく笑ったり泣いたり怒ったり感動したりして
生きている。悲しみをかかえながらも、フツーの平凡な日常を過ごせるようになるというのが、
グリーフワークの大事な到達点ではないか・・・」
「文庫版へのあとがき」より
「・・・・確かに洋二郎はこの世に存在したし、今も私の心の中に生きているという確実な
感覚がある。つまり墓に出かけなくても、毎日のように洋二郎に会っているという感覚だ。
人のたましいはいつまでも生きているというのは、こういうことなのだろうと思う。」
共感させられた部分はまだまだあり、引用したい文章もほんとうにたくさんあります。
ここには書ききれないので、興味をもたれた方、死別体験をされ悩んで見える方などにも、
「犠牲 我が息子・脳死の11日」と合わせて、一読されることをお薦めします。
全国各地の読者より、続々と手紙が寄せられたという。
それらの多くが、心を病む人々や、家族のだれかを喪った人々からのものであり
その手紙の中には、自らの苦難の人生が、『犠牲』に重ね合わせて、連綿と綴られていたのだという。
この思わぬ反響により、柳田氏はその続編といえる、「『犠牲』への手紙」を書くことを
決意されたのであるが、そのことについて、柳田氏は「はじめに」の中で次のように書いています。
「『犠牲』によって完結させようと思った洋二郎の「生と死」の物語が、
多くの読者によって「共有する終わらない過去」として社会的存在となり
その輪の中に私も引きずりこまれることになったのだ。
洋二郎の「生と死」や私自身の心の旅について、もう少し語り続けなければならなくなったのである。」
第1部の中で柳田氏は、多くの読者からの手紙を紹介しながら、次のように疑問をなげかけています。
「では、そういう読者はなぜ見ず知らずの作家に手紙を書くのだろうか。・・・・・
闘病記や追悼記を書くのは、どんな意味があるのか。」
そしてそれらの答えとして、次のように書いています。
「残された者が不当惑やうらみや罪意識や孤独感を、自分なりに整理して乗り越え
事実をありのままに受け容れられるようになるには、その人なりのグリーフワークが必要になるのだが
そのときに自分をさらけ出して他者に語るとか、追悼記を書くという作業は、非常に有効な
グリーフワークになる場合が多い。なぜなら、他者に向かって語るとか書くという行為は
自分の内面にある渾沌とした喪失対象の人間像や人生の足跡や自分との関係性を整理して、
”物語”として組み立てる作業にほかならないからだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
実際、私自身、息子の死後の渾沌のなかから、『犠牲』を書いたことによる心理的な変化を
振り返ってみると、書くという行為が、自分の再出発にとって決定的なステップになったと感じる。・・・」
”書くことによって癒される”
”書くことによって渾沌とした自分の内面にあるものを整理していく”
このことは、まさに私自身の体験でもあります。
一周忌を前にして、お参りにきていただいた人にお渡しできればと考え
晴香の写真などを載せた印刷物を作ろう、と思い立ちました。
最初は、カードかあるいは、ほんの2~3ページくらいの簡単なものを作るつもりだったのですが
始めてみると、あれもこれも載せたい。あのこともこのことも書いておきたい。。
と、次々にページは増えていき、最終的には15ページにもなってしまいました。
パソコンに向かっている間、時間を忘れるくらい夢中になっていました。
もともと文章を書くことは苦手だったし、あまり好きな方ではなかったのだけど
このときばかりは、書きたい、書かなきゃ・・・と何かに駆り立てられるような思いで
キーボードを叩いていたような気がします。
三回忌を前にした時も、晴香のHPを作ろうと思い立ち、
これまた始めてみたら、あれもこれもと次々とページが増え
つぎつぎと思いが言葉になって溢れてきました。
こんな経験は今までなかったことです。
自分の中に仕舞い込まれていた思いが、書くということを通して
一気に外に溢れ出てきたのでしょう。
最初は、晴香の思い出を記録するため、という気持ちもあったのですが
書いているうちに、ほとんどそれは自分自身のための作業になっていました。
柳田氏の言われる、書くことによる再生・・・最初、それを意識してHPやブログを始めたわけでは
なかったのだけど、これまで自分のやってきたそれらのことは
自分自身のためにも間違ってなかったのだと
どん底から這い上がるためにも、意味のあることだったのだと、
今改めてそう認識させられています。
もう一つ、柳田氏が書いてみえる中で重要な点。
それは、「犠牲」の中で、どうしても書けなかったことがまだあるということ。
この本が、父と子だけの物語としてしか書けなくて、
長く心を病んでいる母と子との関係などについては書かれていないのだという。
どうしても書けないことがある。
私もやはり、柳田氏と同じく、書けないことがある。
きっと一生心の中にしまいこんでおくのだろう。
もしかしたら誰にでも、そういう語れない部分というものはあるのかもしれない。
この本の中には、他にも共感するところがたくさんありました。
読者から寄せられた手紙の一節より
<あれから、大事だと思っていたものが重要ではなくなり、ほんのわずかななにかが
とても大切になってきた。そして身のまわりの多くのものが不要になった>
「あとがき」より
「連れ合いや我が子を喪った読者からの手紙には、悲しみは何年たっても消えるものではありません
という心情がしばしば綴られている。
私自身、洋二郎の幼き日の姿や心を病んで精神科に通っていた頃の姿が突然目の前に現れて
目まいがするほど打ちのめされることが、いまだに時折ある。悲しみは心の深いところに根をはって
いるように感じる。それでも日常は虚飾でも虚勢でもなく笑ったり泣いたり怒ったり感動したりして
生きている。悲しみをかかえながらも、フツーの平凡な日常を過ごせるようになるというのが、
グリーフワークの大事な到達点ではないか・・・」
「文庫版へのあとがき」より
「・・・・確かに洋二郎はこの世に存在したし、今も私の心の中に生きているという確実な
感覚がある。つまり墓に出かけなくても、毎日のように洋二郎に会っているという感覚だ。
人のたましいはいつまでも生きているというのは、こういうことなのだろうと思う。」
共感させられた部分はまだまだあり、引用したい文章もほんとうにたくさんあります。
ここには書ききれないので、興味をもたれた方、死別体験をされ悩んで見える方などにも、
「犠牲 我が息子・脳死の11日」と合わせて、一読されることをお薦めします。
はるママさん、こんばんは♪
「犠牲」も「『犠牲』への手紙」も、
はるママさんには、読むのがとてもお辛かったことでしょう。
でも、はるママさんがコメントされているとおり、
晴香さんのことを書くことにより、悲しみを和らげることができたように思います。
願わくば、時が、少しでも心の痛みを和らげてくれればと思います。
図書館で「『犠牲』への手紙」を借りてきました。私も読んでみます。
>きっと一生心の中にしまいこんでおくのだろう。
>もしかしたら誰にでも、そういう語れない部分というものはあるのかもしれない。
おそらく、誰にもそのような想いがあるのだと思います。もちろん私にも。
「ソラリス」というSF映画がありましたが、ご存じでしょうか?
心の奥にしまっておいた想いを具現化されてしまう、そんな苦しみを描いた映画です。
そんな想いをもつのは、人類共通の苦しみなのかもしれません。
ではまた♪
by あきおパパ (2009-08-30 00:58)
あきおパパさん、こんにちは!
「犠牲」を読んでみて、悲しく切なくもなりましたが、
それだけではなく、命の深さやあたたかさにふれて
心がいっぱいになったような、不思議な感動も覚えました。
だからこそ、この本の続編ともいうべき「『犠牲』への手紙」が
あることを知った時、迷うことなく読んでみようと思いました。
そして、やはり読んでみてよかったです。
読み終わって、今度は河合隼雄さんの本が読みたくなりました。
河合さんは、この本の中で柳田氏と対談されているユング心理学者の方です。
このごろ、1冊の本を読むとその中に登場する人の作品が
読みたくなるということが続いています。
書くことと共に、読むこともまた止められないようです。
>「ソラリス」というSF映画
あきおパパさんは、SF映画に詳しいのですね。
こちらの映画のことも知りませんでしたが、こんどレンタル行った時に、チェックしてみます。
PS.メッセージを送りましたので、読んでおいてくださいね!
by はるママ (2009-08-30 13:46)
はるままさん、こんにちは♪
「『犠牲』への手紙」を読み終えました。
心に閉じ込めておいた想いを、誰かに伝えることにより、
やっと自分の心の中を整理できるということがよくわかりました。
「死後、その人は人生を共有した人の心の中に生きる」(p158)。
私もそう思います。7年前に亡くなった義父は、とても心正しい人でした。
家が貧しかったため中学卒業で働かざるをえませんでしたが、
その後一生懸命に働いて、娘3人を東京の大学に出した努力の人です。
結婚後、家内の実家に行った時には、いつもたくさんの話をしました。
ちょっと他人に厳しすぎるところはありましたが、とても尊敬しています。
7年前に亡くなりましたが、義父は今も心の中で生きている気がします。
私が正しい行いをしたと思えるときは心の中の義父は笑顔で賛成してくれますし、
私が迷っている時には、義父は良心に従うよう示してくれます。
私の心の中の義父は、あくまでも私が知っている範囲の義父なのですが、
それでも、私の心の中に存在し、生きていると感じています。
はるママさんの心の中にも、きっと晴香さんが生きているのですね。
たとえ自分が亡くなっても、人生を共有する人の心の中に残る。
もしそうだとすれば、その人たちを大切にしなければなりません。
そう思っていろいろ考える、今日このごろです。
ではまた♪
PS 読み終わってもっと柳田さんの本がよみたくなりました。
今、本の中に書かれていた「恐怖の2時間18分」を読んでいます。
米国スリーマイル原発事故のドキュメンタリーですが、
昔から原発問題に関心が高かったので、とても興味深いです。
by あきおパパ (2009-09-13 12:30)
あきおパパさん、こんばんは。
「『犠牲』への手紙」感想を書いてくださってありがとうございました。
目をあけると貴女がいない・・・
目をとじると貴女がいる・・・
これは、晴香への色紙に、私の友人が寄せてくれた一行詩です。
現実の世界では逢うことはかなわないけれど
心の中ではいつまでも一緒にいるのですね。
晴香だけでなく、13年前に亡くなった義父も、11年前に亡くなった義母も、
数年前に山で滑落して亡くなった同級生のSくんも
一昨年、闘病の末亡くなった子育て仲間のIさんも
みんな、私の心の中で生き続けています。
目を閉じて、思い浮かべれば、笑って語りかけてくれます。
人の心の中で生き続けている限り、人は死んでも死なないといえるのでしょうね。
>たとえ自分が亡くなっても、人生を共有する人の心の中に残る。
いつも、亡くなった人のことをまず考えてしまうのですが
そういう自分自身もいつかは死ぬわけですから、
そのときに、まわりの人たちに、怒った顔でなくて笑顔を思い出して
もらえるように・・・ということなんでしょうね。
>柳田さんの本
私も、「いのち・・」と「犠牲・・」、「『犠牲』への手紙」と3冊読んで
すっかり柳田さんのファンになりました。
あれから私の方は、柳田さんの「言葉の力、生きる力」を読みかけています。
といっても、4冊同時進行で読んでいるので、なかなか進みませんが・・
「犠牲への手紙」後半部分では、柳田さんのこれまでの歩みや
他の作品について、詳しく書かれていますね。
今から10年以上も前に(もしかしたら20年近く前かも・・)テレビで「マリコ」というドラマが放映されたことがあったのですが
これも、柳田さん原作の作品だったのだということ、つい最近になって知りました。
これは、外交官夫妻とその娘「マリコ」をめぐる人間ドラマであり
また、日米開戦に関わる秘話でもあるのですが
よくある戦争映画とは違った切り口で描いてあるのがとても興味深く
もう10年か20年も過ぎた今でもとても印象に残っています。
いつか本も読んでみたいとおもっています。
「恐怖の2時間18分」読み終えられ、なにか思うところがあるようでしたら
また是非、感想お聞かせくださいね。
by はるママ (2009-09-13 22:47)
書き忘れてましたが・・・
きのう、「ソラリス」と「戦場のピアニスト」のDVD借りてきました。
「戦場のピアニスト」は早速みてみましたが、「ソラリス」はまだなので
また時間をみつけて観てみようとおもっています。
「戦場のピアニスト」とても心に残る映画でした。
また、別便で感想送りますので、読んでくださいね。
ところで、「ソラリス」のタルコフスキーは、「サクリファイス」の
あのタルコフスキーと同一人物だったのですね。
ついさっきまで気づきませんでした。
by はるママ (2009-09-13 23:09)
ソラリスの件です。
はるママさんが借りられたのは、タルコフスキー版の「惑星ソラリス」ですね。
これは30年以上前の映画で、ちょっと観念的すぎて、私も眠くなりました。
最近リメイクされた、「ソラリス」(2002年)の方が、わかりやすいかも。
この映画の解釈は人それぞれです。心の奥を具現化されることに対して、
私のように恐ろしいと思う人と、嬉しいと思う人もいるようです。
とても考えさせられる映画でした。
タルコフスキーの「サクリファイス」も、ぜひ見てみたいです。
ではまた♪
by あきおパパ (2009-09-14 01:33)
ソラリスの映画、30年前のものと2002年版のものがあるのですね。
wikipediaでタルコフスキーのことを調べていて偶然、作品の一つとして「惑星ソラリス」があげられているのを見つけました。
それで、てっきりあきおパパさんが教えてくださったものと同じものだと思ってしまったのですが、こちらは別物だったのですね。
借りてきたDVD確かめてみたら、2002年版のものだったので、よかったです。
今日は忙しくて観ることはできませんでしたが、また近いうちに観てみますね。
教えてくださって、ありがとうございました^^
by はるママ (2009-09-14 21:58)
「ソラリス」観てみました。
とにかく映画をみている間ずっと、怖くて仕方ありませんでした。
夜は恐ろしすぎるから、明るい昼間に観たのですが、それでもやはり怖かったです。
亡くなった愛する人が現実目の前に現れてくれたら、
そういう願望もわからないことはないけれど。。
実際、晴香が亡くなった直後、四十九日が過ぎるころまでは
なんとなくそこら中に晴香の気配を感じていました。
とにかく逢いたくて、幻覚でも霊でもなんでもいいから
姿をみせてほしい、などとそのころは思っていたような気がします。
もう6年もたった今は、さすがにそのように思うこともなくなりましたが。。
ときには、無性に逢いたくなることもあるけれど
それでも、実際映画のように、願望が形あるものとして現れたとしても
それはあくまで虚構の世界にすぎないわけです。
そのような世界を追い求めるのは、やはり虚しいものに思えます。
いずれは、自分も亡くなった人と同じところに行くわけですから
それまではやはり、今の現実を生きていかなければいけないのでしょう。
この映画は、リメーク版とのこと、
タルコフスキーの「惑星ソラリス」がこの映画のベースになっているのだろうか。
「サクリファイス」も意味深な映画のように思われるけれど
「ソラリス」も、人の心の奥底を覗くような考えさせらる映画。
監督であるタルコフスキーは、どんな人なのだろうかと、少し興味を覚えました。
by はるママ (2009-09-17 15:22)
はるママさん、こんばんは♪
やはり怖い思いをさせてしまいましたか。ごめんなさい。
先に書きましたとおり、私にとってもこの映画は怖い映画で、
心の底を抉られるようで、映画館では涙が止まりませんでした。
この映画は見る人の経験により、受け止め方が違うように思います。
主人公と同じ思いをもつ私にとっては、とても厳しい映画でしたが、
一方で、この厳しさを見事に描いた監督はすごいと思います。
(残念?当然?ながら、この映画はヒットしなかったようです)
この映画の原作は、スタニスワフ・レムの「ソラリスの陽のもとに」(ハヤカワ文庫)です。
p296に「海はそのなかでもっとも病的な箇所、もっとも深く秘められていて、もっとも完全に、もっとも深く刻み込まれているものを取り出したのだ」と、海の役割が明確に書かれています。そしてこのことが深い苦しみを導くことも。
もしこの映画の意図を確認したくなったら、この本もご参考ください。
ではまた♪
by あきおパパ (2009-09-18 00:37)
あきおパパさんも、辛い経験をされてみえたのですね。
本や映画の中には、ときに自分の経験と似通った部分がでてくることがありますが、そういうときには、主人公や登場人物が自分自身と重なって見えてしまいます。
私にも、そういう経験が何度かあります。
読んでいくのが、観続けるのがつらくなるにもかかわらず、
それでもまた気がつけばまた本を読んでいるし、映画も観たりしています。
やめられないのはどうしてなのでしょうか。
本や映画の中には、悲しいとかつらいとか感じながらも
自分がそれまで気がつかなかったことに気づかせてくれるような
そんななにかがあるからなのかもしれません。
私もそんななにかを求めて、本を読み続けているのかもしれません。
「ソラリス」には原作本があったのですね。
映画の中では、掴み切れなかったことが、なにかわかるかもしれないので
一度見てみたい気もします。
こちらの本屋さんにも置いてあるといいのですが・・・
by はるママ (2009-09-19 21:18)